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日治台湾の病気事情

「東洋一不衛生な地」と呼ばれた清代の台湾

 (死亡率こそ低いけれど)世界中を翻弄するコロナ禍は、中世の黒死病、近世のスペイン風邪と並んで、いずれ世界史の1ページとなるでしょう。21世紀でさえこうなのだから、昔の人は病の前ではどれほど無力だったことか。というわけで、今回は日治台湾の医療や病気についてのお話です。
◎表紙写真は、かつての一般的な台湾人民家。
 
 日本統治が始まる約10年前のこと、清とフランスの間でベトナムの領有をめぐって清仏戦争が起きました。その折、台湾にはクールベ提督率いるフランス艦隊がやってきたのですが、提督は台湾をこう呼びました――「東洋一不衛生な地」。
『植民地台湾の日本女性生活史』明治編には、このようにあります。
「日本人がうんざりしたのは、台湾の街路や家屋や物売りのどうにもならない不潔さであった。街路では家畜が勝手に屠殺され、民家にはトイレがなく、便桶の中のものは翌朝道路に流された。座って食事するとハエが真っ黒にたかるので、茶碗を抱えて歩きながら食事した」

 以上は日治時代初期のことですが、それから20年以上経った大正年間の様子を、台湾人のあるご老人はこう述懐していました。
「集落に井戸はあるが、人畜の排せつ物がよく混じる。集落唯一のため池で、衣服も家畜も、はては便桶まで洗う。町には銭湯があるが、銭湯のない田舎の住民はほとんど入浴しないまま一生を終えた。普段は体をこするだけなので、みなノミやシラミがいた」
そこから10年余り後、昭和初期の農村の様子を、別の台湾人からこう聞いたことがあります。
「農民の家にはふつう、風呂もトイレもない。村の井戸は汚水混じりなので、(それを煮炊きに使うしかないため)子供がよく死んだ。水にはいつも不自由していた。体を洗うのはたまに池で水浴びする程度」
 
お二人によれば、「台湾総督府の近代化は都市部が中心で、田舎は無視されていた。さらに戦後、国民党政権は大陸との攻防に明け暮れて、それが終息した1970年前後からようやく台湾全土のインフラ整備に乗り出した」。

なぜ不衛生だったのか

 清潔な水が不足していたこと、乾燥した大陸の生活様式を湿度の高い台湾でも守っていたことが、不潔さの2大要因だったと思われます。
 表紙写真の通り、かつての台湾の一般的な家屋は、土をレンガ状に固めたものを積み上げて造り、窓は小さく、下は地面のままでした。この構造は暑さを防ぐには良いのですが(今の家より夏は涼しかったとか)、湿気がこもりやすく、雨が降ると下はぬかるみ、そこに家の中で飼っていた牛や鶏がフンをする。ネズミやゴキブリも多い。さらに集落の至る所に水たまりやドブがあるので、蚊も絶えない・・・これでは、病気が流行るのは当然です。
 
 明治30~40年代には毎年のようにペストが流行、それ以外にもチフスや流行性脳脊髄膜炎、コレラなどがたびたび流行しました。中でも、熱帯特有の風土病といえるマラリヤとデング熱はなかなか減らず、マラリヤは戦後アメリカが薬剤を空中散布するようになってようやく撲滅したそうです。デング熱にいたっては、今も台湾南部やシンガポールでも、時たま患者の発生が報告されています。

台湾のかつての別名のひとつが「瘴癘(しょうれい)の地」。
 瘴は高温多湿、癘は熱帯性の伝染病で主にマラリヤを指します。台湾(東南アジアもそうですが)では、車内・店内のどこも異常なほど冷房が強いものですが、病気の歴史を知るうちに、その理由がわかったような気がしました。あの冷房責めは、高温多湿の気候のもとで伝染病が蔓延した過去への反動、というより恐れではないか?私には、そう思えるのです。
これほど不衛生だった台湾に対し、総督府はどんな手を打ったのでしょうか?

台湾の病気の神様「王爺」の祭り・焼王船。
3年に1度、屏東県の東港で行われます。詳細はいずれ別記事でご紹介します。

総督府の医療・衛生策

 日治時代初期から、医院が各地に造られ、同時に公医制度=西洋医学を学んだ日本人医師約200名を台湾全土に派遣した=が始まりました。
 明治32年からは総督府医学校を開校したほか、都市部に病院が建設されました。中でも後藤新平が建設した台北病院は、100年以上経った現在も「台大医院(台湾大学附属病院)」として立派に使われています。特筆すべきは、患者が来やすい市街の中心に、入院・付き添いの人々が休憩でき+増築が必要になった時に対応できるよう、広大な敷地を取ったことです。
 後藤は医師上がりでしたが、第4代総督・児玉源太郎との出会いも医学つながりでした。
 日清戦争では戦死者の9割が病死だったため、戦争終結後、将兵たちをそのまま帰国させると国内に伝染病が蔓延する心配が起きました。当時、陸軍次官だった児玉は、軍医総監が推薦した後藤を起用、「帰国将兵の検疫と消毒を」という提案を実行させ、日本国内での伝染病発生を抑えることができたということです。その経験を踏まえた児玉&後藤コンビは、台湾でも、大陸から伝染病を持ち込まないために港での検疫に力を入れています。
 
 その後の歴代総督も、衛生・病気予防には精力的に取り組みました。細かいところでは、産婆の普及を図ったりもしています。
 ただし辺ぴな町村では、貧困のために多くの病気が蔓延していました。昭和8年と10年の台南地域の記録では、「トラホーム(細菌性の眼病)とマラリヤが2大病、失明者のほとんどはトラホームが原因。回虫保有率90%以上。5歳未満の死亡率は50%」「回虫駆除に施薬し大変効果があった」という記述が見えます(1)。特に清潔な水が不足していることで、春夏は伝染病、秋冬は眼病に悩む人々は多かったようです。戦前の日本と同様、結核患者もかなりいました。

庶民の衛生指導を担った巡査たち

 そういう辺ぴな地域で、衛生指導を行ったのが巡査たちでした。日治時代の警察は、警察本来の職務のほかに、役所(戸籍や税の管理など)と保健所(衛生指導)も兼務しており、さぞ多忙だったことでしょう。
 たとえば、
・ペスト菌を媒介するネズミ駆除を促進させるために、ネズミを買い上げる
・ボウフラ退治のためにドブ清掃を村人総出でさせる
・通風と採光のために台湾人家屋の窓を大きくさせる
などの指示を、村人の家を1軒ずつまわって呼びかけました。

総督府の指導と、警察官たちの地道な努力によって、台湾の衛生観念は徐々に改善されていきました。
 
1)各州で毎年調査を行い、その結果を要覧としてまとめています。調査→記録→改善という作業をきちんとしてきた総督府の統治姿勢がうかがえます。

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