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ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った(原題:我替天皇造飛機)4

その4 終戦

 終戦後は、もう出勤する必要はなくなった。日本政府はぼくたちに、食べ物や電車に乗って遊びに行く自由をくれると約束した。
 ぼくより年上の少年工たちは、台湾人留学生と組んで台湾同郷会を結成し、ぼくたちに(中華民国の)国歌や国旗歌を教えた。その「三民主義は・・・」という歌の中で、自分の祖国が元々は中国であるとぼくたちは初めて知った。「山川は麗しく、物は豊か」というそこは、ぼくたちを凍えさせたり、飢えさせることなどするまい! ぼくたちを故郷や家族から引き離すこともするまい! 中国は戦勝国だ、そうとも、ぼくたちこそがこれからは「一等国民」なのだ!(1)
 日本人たちが並んで配給品を受け取っている時でも、ぼくたちの食事は改善していった。ぼくたち台湾人がどこへ行こうと電車賃は無料だし(2)、日本人は礼儀正しく接してくれる。ぼくたちが米軍に話しかければ、彼らは乾パンや缶詰などをくれるのだ。それらは当時としては、どれだけ贅沢なことだったろう! 一等国民のうまみは実にすばらしかった。それは、生まれて初めて訪れた栄光の日々だった。
 
 東京の街並みは寂しかった。日本人が家財を売り払って開いた露店が、ぱらぱらとあるだけだった。ぼくたちは米軍からもらった缶詰や食料を、そういう日本人たちに渡して、自分が気に入ったものと交換した。ぼくはそこで生まれて初めて腕時計を手に入れたのだが、それは全くお値打ち品で、ぼくの人生が最も輝いた壮年期までずっと使えたのである。

現在の基隆港。
基隆周辺は雨が多く、この日も小雨が降っていた

 翌年(1946年)の春、ぼくたちはついに台湾に帰ることになった(3)。米軍からもらったイワシの缶詰、乾パン、服、毛布などを、興奮気味に荷造りした。元宵節(旧暦1月15日)のその日、ぼくが故郷の家に帰り着くと、父はちょうど神棚の前でお祈りをしているところだった。父はぼくの姿を見るや、床に膝をついて天に向かい、何度も感謝した。数日後、父はお供え物を揃えると、ぼくを連れて麻豆一帯の廟という廟にお参りに歩いた。
 
その途中のことである。
ぼくは高等科時代の担任だった西村先生を見かけた。先生は道ばたの草取りをしていたが、ぼくに気が付くと涙をボロボロ流しながら、「よかった、よかった。無事に戻ってこられたんだな。もう少しで君のお父さんに息子の仇を取られるところだったよ!」と言った。
 いつも堂々としていた先生、ぼくがずっと尊敬していたあの先生が、何だって草取りやゴミ集めみたいなことをしているのだ? 敗戦国の国民とは、こうまで落ちぶれないといけないのか? 先生は「すまないことをした」と、ぼくにいつまでも謝り続けていた(4)。ぼくはとうとうこらえきれなくなって、先生と抱き合って泣いた。

1)戦前の台湾では、日本人が一等国民、沖縄出身者が二等国民、台湾人が三等国民とされた。

2)『台湾人と日本精神』(小学館)でも、終戦直後の日本で「戦勝国民用列車」が運行された話が出ている。

3)少年工たちは終戦後すぐさま自治会を組織し、国や県相手に食料確保や帰国船手配などの交渉を行った。冒頭の「日本政府の約束」も、自治会の要請を受けて実現した可能性が高い。

4)戦闘機組立に耐えうる頭脳と体力が必要なため、教師たちは学校でも特に優秀な少年たちを選んで、高座行きをすすめた。
 なお、台湾にいた日本人は敗戦で無収入となったため、道ばたで家財を売ったり、物々交換で食いつないだ。この教師のように労働奉仕に従事させられる者もいた。民間人の日本引揚げは主に昭和21年の3~4月で、この話はその1か月ほど前のことになる。


 
 
 



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