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土匪昔ばなし2~台湾や大陸にいた土匪(匪賊)とは~

乃木将軍の土匪対策

『植民地台湾の日本女性生活史』によれば、日治初期の台湾といえば「土匪、生蕃(山地の先住民)、毒蛇、マラリヤ」が何より恐ろしく、次いで野犬、虫・・・と挙げられています。
◎表紙写真は、日治時代の日本軍(時期・場所とも不明)。うしろに台湾人の草ぶき家屋が映っています。

筆頭にあがる土匪に対しては、台湾の一般人の大反撃とあいまって当初は血で血を洗う状態となってしまいました。疑わしきは全て成敗するを優先しすぎて、罪なき台湾人が犠牲になることもありました。
 土匪を一掃するために綿密な作戦を考えるようになったのは、第3代総督・乃木の時代です。乃木は「三段警備法」を採用、これは台湾全土を「危険」「不穏」「安全」の3種に分け、
危険(山地)=軍隊
不穏(都市郊外~山あい)=憲兵
安全(都市部)=警察官
を配備して、警戒に当たらせるものでした。同時に「匪徒刑罰令」を以て土匪もしくはその疑いのある者を次々と処刑、これで1~2万人が処刑されたということです。

 しかしながら、軍隊は山地の地理に不慣れ、土匪が悪事を働く集落では攻撃力の乏しい警察を配すというミスマッチ、また軍隊・憲兵・警察の仲が良くないので連携が悪いこともあって、大きな成果は得られませんでした。そういうわけで、三段警備法は
理想と実際が必ずしも一致しないので、児玉将軍(第4代総督)の来任するやただちにこれを廃してしまった。

天才・児玉&後藤コンビの登場

 児玉源太郎総督と後藤新平民生長官(総督府のナンバー2)は、ともに天才的ともいえる抜群の頭脳の持ち主でした。このコンビの時代に、インフラや各種制度など日本統治の基礎が確立したといえます。

 さて、児玉は帰順策を第一としました。児玉は乃木時代の成果を見て、単に「降伏せよ」だけではダメだと考え、土匪が生まれた社会背景などを十分調べたうえで、一計を案じました。
 これは土匪のボスに莫大な金を出して子分全員と降伏させるもので、降伏しないと猛攻撃を行いました。降伏後は道路工事や運送業などの正業に就かせました。また全員の顔写真を撮り、名簿を作って、悪事を再開してもすぐ捕まえられるようにしました。しかし目的はあくまで「自分の意志で日本に帰順させる」ことだったので、後藤新平は、山地まで行って土匪と会い、大義名分を説いて降伏をうながすことまでしています。
 こういう総督府の方針を受け、各地域の役人は「土匪に相当の便宜と優遇を与えて犠牲を払っている」と不満に感じました。しかも、日本側の平身低頭ぶりに増長する土匪も出てきて、地方の軍隊・警察の中には、「こんな長官総督のために、犬馬のように働いておられぬとばかり、職を辞めたものある」

衝撃的だった朴子脚事件

 しかし数百年続いた土匪の根深さは、さすがの児玉・後藤さえ、予想していませんでした。
 帰順式の後にまた土匪に戻る者はいるし、日本がここまで譲歩しても日本人襲撃事件はやはり起こったのでした。こうした事例を挙げて、明治32年頃の新聞には、「吾らは台湾を得てはるかに失望せり」と児玉・後藤の批判記事が書き立てられるほどでした。

現在の朴子市街

 そして明治34年11月に、樸仔脚(朴子の旧名)事件が起こります。
今の嘉義県朴子市で、2~300人の土匪が10時間以上にわたって日本人街を襲い、婦女子を含む日本人をほぼ皆殺しにする凄惨な事件でした。台湾人住民は見て見ぬふりをしたうえ、隠れ場所を教えることまでしています(少数ながら、日本人をかくまった台湾人もいます)。
 総督府のショックは大きく、以後は徹底鎮圧に方針を転換。土匪のアジト奇襲など一掃作戦を始めました。明治35年5月には、帰順式に集まった土匪に「疑わしい挙動があった」として即座に皆殺しにしています。
 こうして「土匪が本島各地から姿を没したのは、ようやく明治35年夏のことだ」。
 土匪鎮圧のやり方を見て、震え上がった台湾人も多かったはずです。
「これが明治37年に国運を賭すの非常時(日露戦争で日本が敗北したら、台湾人が日本人を襲うだろうと心配されていた)に遭っても、台湾人に微動だにさせずに済んだ遠因でもあった」
記事は、児玉、後藤両総督長官の遠謀深慮と英断 への賞賛で終わっています。

日治開始時期の台湾の人口は約250万人。処刑された土匪もしくはその疑いのある人々は数万に及んだので、人口の1%以上が命を失ったことになります。そして日本人死亡者も合わせると、日治初期にどれだけの血が流されたことか。児玉・後藤の輝かしい功績の陰で、すさまじい数の、とりわけ罪無くして命を奪われた人々があったことを思わずにはいられません。

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