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代書筆12 日本時代の旅行 後編

40日間の日本ツアー

 昭和16(1941)年、私は富士丸に乗って日本へ40日間余の旅を楽しんだ。これは製糖会社の退職者が組んだツアーで、4,50人が参加した。メンバーは全員台湾人。当時、日本と台湾の間には4隻の旅客船が運航していた。

 私が参加した理由は、すでに戦時中で乗船券が手に入りにくかったことと、日本で行きたい所があったからだった。当時私は、あめ製造の会社も経営していた。物資欠乏の折、あめ原料の代替品技術を持つ会社が神戸にあったので、神戸に着いたらツアーをちょっと離れてこの会社を訪ねようと思ったのだ。結局この交渉はうまくいかなかったが、このツアーではさまざまな思い出ができた。

富士丸に乗船した時の写真

 東京へ行くのはこのツアーが初めてだったので、何でも新鮮に感じられた。第一ホテルは銀座にあって大変有名だが、規模はそれほど大きくない。客室の窓は二重で開かないようになっていた。不思議に思ったら、すぐ外の通りを天皇が通ることがあるので、そうなっていたらしい。日本の決まりは厳しくて、道で天皇を見かけたらひざまずいて、頭を上げてはいけないという。このホテルは館内に和洋のレストランがあったが、どの品も台湾人には量が足りなかった。やがてホテル横の路地に小さな食堂があることに気づいた。安かったので、お腹も満たされた。

 東京では、浅野総一郎の私邸も見学した。彼は台湾で浅野セメントを創立した大実業家で、のちに北海道や台湾の主管拓殖大臣になった人物だ。彼の邸や官庁の内部見学ができることも、このツアーに参加した理由である。

拓殖大臣官邸での記念写真。後列中央やや左よりに孫氏。
ひときわ大柄なので、すぐわかりますね

 東京で1番印象に残っているのは、何といっても白木デパート*だ。
6,7階建てで中はとても広く、何でも売っていた。卸が中心で小売りはしておらず、一般人は入れない。ただ小売り営業証とパスポートを持つ外地人は入館できた。フロアごとに専門が分かれ、例えばネクタイなら、ありとあらゆる種類が整然と並んでいる。商品は自分で勝手に見たり、手に取ることができた。しかも誰も監視していない。今なら100万元(日本円で約400万円)ぐらいしそうな宝石でさえ、ただ置いてあるだけなのだ。これには全く驚くと同時に、感心した。

 この他、上野、日光、宝塚、京都など、たくさんの場所に行った。松竹歌劇団という、若い女性だけの舞台も見た。京都には大小1000以上の寺があるそうだが、私は清水寺と三十三間堂、金閣・銀閣しか行っていない。

  日本時代は、中国にも行ってみようとした。しかし日本政府は台湾人が大陸へ行くことを好まず、旅券申請が難しかった。当時は、高雄港からアモイへの航路があった。ぜひとも乗りたかったのだが、忙しいこともあって叶わなかった。

*白木屋デパート。現在はありません。

安宿にこりごり

 販仔間とは昔からある、最も安い部類の宿だ。主に牛引きや行商人、占い師などが利用する。食事はつかず、規模は大きくない。木造の寝台があるだけの、寝られればいいという宿である。たいていの町や村にあり、善化にも1軒あった。山地に少ないのは、山あいの住人はもてなし好きで見知らぬ人間でも泊めるぐらいだから、宿商売が成り立たないのだろう。
 大正15(1923)年、仕事で東港(屏東県)へ行った。そこで泊った宿では一晩中ノミに食われ、一睡もできなかった。以後、私は販仔間は2度と使わなかった。

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