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予告・台湾少年工の手記を連載します

 太平洋戦争が始まって2年後の昭和18年、神奈川県大和市高座地区に、軍用機の製造拠点として、高座海軍工廠ができました。終戦まで、ここでは8419人の台湾人少年(13~20才)が、128機の戦闘機を製造したのです。
 
なぜ台湾人がこれほど多くやってきたのでしょうか?
戦局の悪化につれ、日本国内の人手不足(特に男子)が深刻となり、新たな労働力として台湾人に目がつけられました。当初は朝鮮人が考えられていましたが、彼らは「反日的で信用できない」ということで、台湾人になったのです。

ただし、少年たちは無理やり徴集されたのではありません。
「高座に行けば、飛行機を造りながら授業も受けられ、経費は無料、給料が出て、しかも帰国時には中学卒業同等の学歴と技術者証がもらえる」という条件に応募者が殺到、学力・身体検査を経た優秀な者だけが送られてきたのです。しかし、高座で待っていたのは、想像以上に厳しい毎日でした。
 間もなく終戦、戦勝国となった祖国・中華民国に帰り着いた彼らを、さらなる試練が襲います。
 しかし人生において彼らを支えたのは、「自分たちは選抜されて日本に行った」という誇りでした。それが今も、彼らの自信と連帯感の源となっています。

 日本統治時代の台湾について調査していた私は、2010年、元少年工のAさんと知り合いました。
 そして地元紙に掲載された彼の手記をいただきました。少年工についてはもっと詳しく書かれた資料もありますが、彼の人生は台湾の現代史を知るうえで参考になる内容なので、できるだけ多くの方に読んでいただくべく紹介することにしました。
なお原文は中国語のため、私の意訳+当時の状況を知る上での注釈をつけました。

台湾は親日国とよくいわれます。でも私は、この言葉を見聞きするたびに複雑な気分になります。
 親日派の最大グループといえるのが、元少年工を含む現在80~90代の人々です。彼らの日本への傾倒ぶりを聞くと、あまりのすごさに面食らうほどです。
しかし、そこに至るまでにはどれほどの苦しみがあり、それを乗り越えるための葛藤があったか、それを知るまで日本人が「台湾は親日ですよね!」と軽々しく口にしていいのだろうか・・・と私は思うのです。

ぜひ多くの方に、特に台湾好きの方に、知っていただきたい歴史です。

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