見出し画像

ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った(原題:我替天皇造飛機)5

その5 寒風

一等国民の栄光は、長続きしなかった。
 日本での技師の経歴は祖国では何の役にも立たず、学歴に関しては低いままだった。どの働き口も早い者勝ちだったから、(ぼくより能力が低くて)日本へ行けなかった同級生たちが学校職員などの仕事に就いているのを、ぼくは指をくわえて見ているしかなかった。本当に悔しかった。
 幸い、父が畑を少し分けてくれたので、自分の食いぶちぐらいは何とかできた。

 民国37年(1948年)、父に言われて一生の大仕事=結婚をした。伴侶になったのは、田舎出身のよく気のつく娘だった。ぼくたちはともにまだ10代だったが、家庭を背負っていかねばならなかった。そこで兄の推薦によって、麻豆製糖工場の技師に就職した。同僚のほとんどは字が読めなかった(1)が、ぼくは教育を受けていた。さらに日本で飛行機組立の経験を持っていて、機械操作の心得があったから、間もなく班長に昇進した。
 
 冬は製糖業の多忙期(2)である。仕事は昼夜ローテーションなので、真冬の深夜や明け方でも、出勤しなければならない。寒風吹きすさぶ中、自転車のペダルをこぎながら、ぼくの胸中は複雑だった。
――もし日本へ行かなかったら、今頃はきっと温かい布団の中にいられたにちがいない。
――でももし、日本のあれほどの寒さを経験しなかったら、こんな辛い仕事に耐えられただろうか?

 

麻豆の総爺地区にあった麻豆製糖工場は、日本時代は明治製糖だった。
同じ場所に復元されている明治製糖時代の事務所。
一帯は、製糖会社の様子がわかる史跡公園になっている

その頃の仕事は確かに大変だったが、少なくとも生活に困ることはない。ささやかながらも安定した暮らしの中で、ぼくは好きなこと=音楽や歴史に時間を割く余裕ができるようになった。わずかな給料からクラシック音楽のレコードを買ったり、製糖工場の楽団に入って吹奏楽器を楽しんだ。仕事が暇な時期は、よく各地で巡回演奏もしたものである。
 当時、台湾の外貨収入の大半は、砂糖の輸出に頼っていた。製糖業は政府にとって重要な産業のひとつだったのである。そこでも台湾人は、「二等国民」の憂き目に再び遭う。職場のあらゆる「長」と付くポストは、学歴のある者が占めていた。昇進も学歴が優先され、ぼくはへたくそな北京語で上司と話をしなければならなかった(3)。
 そして台湾人は、いつも秘密保持するよう求められていた。もっと恐ろしかったのは、工場にいた比較的学歴の高い台湾人社員が、一人また一人と失踪したことだ。残された妻子はうろたえ、昼夜待ち続けるしかない。のちにそういった社員たちが、実は緑島(4)へ送られていたことを知った。
 
 そういうわけで昇進の望みを断たれたぼくは、副業を探すことにした。いろいろ調べた結果、わりと簡単らしいという理由で、養鶏を始めることにした。それと同時に、ぼくは自分が一番好きだった楽団活動に別れを告げたのである。

1)戦後の台湾には、蒋介石率いる国民党(毛沢東の共産党に敗北)が家族を含め100万人やってきた。彼らの大半は学校へ行ったことがなく、そういう者があらゆる産業や役職に入ってきた。日本統治時代の台湾では教育に力が注がれ、統治末期の台湾人の識字率は90%以上だったから、「字の読めない同僚」とは大陸からやってきた中国人(大陸人と呼ぶ)と見てよい。

2)台湾でサトウキビの収穫期は12~2月。収穫後、風味の落ちないうちに製糖過程が始まる。

3)「学歴」としているが、台湾人は二等国民とされた+上司に北京語を使う(台湾語とは異なる言語)表現から、大陸人が上部ポストを占めていたことがうかがえる。

4)台東沖の孤島。かつては政治犯の収容所であった。蒋介石政権は日本色を排除すべく、日本時代の建造物(駅や官公庁など使えるものは使った)の破壊と同時に、国民党が支配しやすいように台湾人エリート層=日本時代に高度教育を受けた者の逮捕・処刑を繰り返した。

 
 
 
 



いただいたサポートは、記事取材や資料購入の費用に充て、より良い記事の作成に使わせていただきます。