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代書筆16 国民党の台湾上陸

台湾人は中国兵をどう見ていたか

 日本が負けた後、中国人が台湾に来た。その時はみな喜んだ。ただ善化では、特に祝賀行事は行わなかった。
 台南の世界館(映画館)が接収された時、中国兵が中を調べに来たが、鎖1本でも見つけたものは持っていかれた。当初、人々はみな怖がって、中国兵とは一切付き合おうとしなかった。中国兵の多くは文字も読めないのに兵隊になったような連中*だから、台湾人は心配していた。夜遅い時は、特に女性は、中国兵の駐屯地の近くを通らないようにした。そういうわけで、一般人と中国兵はほとんど接触がなく、衝突や問題も少なかった。

* 当時の中国大陸では、8割が文盲だったといわれます。

 善化に中国兵が来たのは、確か二二八事件(次回紹介します)の後だった。一番早く来たのは鉄道兵で、小学校の教室のいくつかを使って滞在した。のちに軍官(いわゆる将校)のグループが来て、長く滞在した。私が知る限り、全員軍官で兵隊はいなかった。彼らと地元民の接触は限られていたし、配給があって衣食はまかなえていたので、町に買い物に来ることはほとんどなかった。
 息子が経営する孫外科へ、診察を受けに来た軍官もいた。教養人もいて、一人は治してもらった礼に書画を贈ってきた。もちろん文盲の人もいた。

 彼らに対する最も強い印象は、日本の軍官とはちがうということだ。日本人の軍官は、たいてい実に偉そうだった。例えば台南にいた連隊の場合、少尉はいつも部下を4人連れており、買うのも品選びもみな部下にさせていた。中国の軍官は全然ちがっていて、上級の者でも自ら市場へ買い物に来るし、部下に何かさせることは少なかった。

 そうは言っても、台湾人は彼らを「めしを食ってるだけで何もしない連中」と思い、付き合おうとしなかった。この軍官たちは何十年も住んでいたが、最近(2000年頃のことか)どこかへ引き揚げた。他にもいくらかの中国兵は善化周辺に来たが、人数は多くない。中には、台湾人や原住民と結婚した者もいた。

◎国民党が台湾へやってきたのは、1945年10月です。同月25日に台北では最後の台湾総督・安藤利吉(翌年、拘留されていた上海で自殺)が降伏文書を提出し、ここに日本統治時代は終わりを告げたのでした。この時点では「日本人の希望者は台湾に住み続けられそう」と思われていました。「全員引揚げ」が決まったのは年末ですが、時期は数年先になるのではという噂もあったため、46年2月頃に突然通達が来て、あわてて荷造りをする人が大半だったそうです。

高雄の観光スポット・蓮池潭。ここがある左營区には、
国民党の退役軍人が多く暮らしていました。


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