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代書筆9 日本時代の食事

極めて質素だった日常食

 大正10(1921)年頃のわが家では、他の一般家庭と同様に、毎日の食事といえば米2+干しサツマイモ8の割合で作ったイモがゆだった。善化の農地の7、8割はサトウキビ畑で、残りはだいたいイモ畑。田んぼは少ない。米粒は普通の品種より大きく、赤米や黒米もあり、茎は細く長かった。現在はもう見ない品種だ。米の収穫は多くなく、日照りや台風があるとさらに収穫は減った。わが家では父が大林から善化へ移ってきた時、田をやっていたこともあるが、のちにやめてしまった。

 イモ以外では、麻や豆を植えていた。豆は緑豆、大豆、米豆、エンドウ豆など。米豆は大豆に少し似ているが、もっと白くてあまり丸くない。今もたまに見る。おかゆに入れるとおいしい。

 おかずは少ない。あっても主に瓜の漬物だった。土マンゴーや桃、スモモなども塩漬けにすることがあり、少し甘い漬物ができる。海産物を食べることはめったにない。麻豆という地区からカキが入ってくるが、量が少ないので水に入れておき、ふくらませてから料理する。魚は塩漬けをごくたまに口にできる。焼き魚では量が十分でないから、塩漬け瓜と一緒に煮たり、米と塩水と一緒に炊く。当時、海産物はとても少なく、余裕のある家しか食べられなかった。

 果物を買う人も少ない。たった1カゴのミカンを町で1日中売っても、夕方にはまだ残っているほど売れないのだ。善化の周辺地区では文旦、ザボン、マンゴー、レンブなどが獲れたが、当時、果物は病気の時にようやく口にできる高級品だった。

ハレの日の食事と外食

 大正時代、ごちそうを食べる機会といえば、廟の祭りや墓参りの時ぐらいだった。その時は親せきや友人を招く。お客はたいてい何日も泊っていく。ふとん持参で来て、家に入りきれない時は地面にそれを敷いて寝た。
 ごちそうは数日前から準備を始め、乾きものや揚げ物は先に作っておき、当日また火を通した。食事の後は、来られなかった人への土産として包子やゆで餃子などを渡し、余った料理は近所に配る。
 田舎のふるまいは大変で、客が少ない時は恥をかかないように隣近所も呼ぶなど、大勢呼ぶことに全力を使う。費用も1年の貯えを使うとか、借金してまでつぎこむ者もいた。おそらく、田舎ではこういう時以外、ごちそうを食べる機会がないからだろうと思う。

 日治時代、台南で最も有名な日本料理店は「鶯」だった*1。ここは純粋な和食店で、特にウナギが名物だった。酒も飲める店だと松金楼。台湾料理と日本料理の両方あった。下林は台湾料理の店でホステスもいた。
 今もある台湾料理店では阿霞料理店(台南市街に現存)が当時から知られており、カニおこわが看板料理だ。酒も料理も楽しめる店では、台北だと蓬莱閣が一番有名で、江山楼や黒美人も知られた。どれも(メニューは)台湾料理の方が多かった。

 日本式の飲食店には天丼などの丼ものがあるほか、一番多いのはエビや魚の焼き物(おそらく塩焼き)だった。西洋料理は台南のほとんどのデパートにレストランがあって、コースやステーキなどを食べられた。ただし、こういうところは高いうえ、そもそも店が少ないので、一般の台湾人が行くことはなかった。
(もう少し簡単な外食としては)おにぎり、ちまき、包子、肉圓などがある。包子は萬川包子店*2が有名だ。

*1 

「鶯」は気象博物館の隣に復元され、内部にはカフェやショップがあります。

*2 創業は清代の1871年。萬川号という名で今も営業しています。ここの肉まんは私もいただきましたが、確かに絶品でした。

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