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ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った(原題:我替天皇造飛機)3

その3 終戦

 雪の日は、台湾人が一番興奮してしまう時だ。ぼくたちは寒さを忘れて雪を食べてみたり、蛇口の先にできたつららを蹴っ飛ばしたりして、思い切り楽しんだ。
 やがて春になって、桜が咲いた。あたり一面、白の中にうっすら赤みを帯びた花の海となる風景に、我を忘れて見とれた。桜の花といえば日本の国花であり、日本人はその「パッと咲いてパッと散る」点を何よりも尊んでいる。まとまって咲き群れるきらびやかさ、例えようもない美しさも、大和民族の心を象徴している・・・つまり、天皇のために一致団結し、壮烈な犠牲もいとわないということだ。日本人が尊ぶのは命の長さではない、何のために命を捧げるか、ということだけなのだ。
 ぼくたちも桜を崇拝していた。だから、地面に落ちた花さえ、踏まないようにしたぐらいである。

 戦争末期、米軍の空襲がひんぱんにあった。一度にやってくるB29は、100機を超えていた。奴らは日本の家屋がすっかり焼けてしまうように、先にガソリンをまき、それから焼夷弾を落とす。防空壕に逃げ込まないと、死体さえ残らない。東京方面の上空は、よく真っ赤になった。当時の日本はすでにボロボロの状態で、戦闘機が不足していて、地上から高射砲を撃つしかなかった。聞いた話だが、そういう高射砲の射手が敵機をひとつも撃ち落とせなかった日は、一日食事しないそうである。
 高座の工廠はとても広く、目印になりやすかった。しかし、米軍は「ここにいるのは全部台湾人だ」とわかっていたらしく、ぼくたちのいたところが空襲に遭ったことはなかった。そういうわけで少数を除いて、ぼくたちの犠牲はほとんどなかった(1)。
 ある日、米軍が広島近くで落下傘のような爆弾を投下したというニュースが入ってきた。その威力は未だかつてないほど大きく、地上の人畜は全滅、72年経たないと再建できないといわれた。その日ずっと、工廠の人々は上下の区別なく、みな居ても立ってもいられない気分になった。後にその爆弾が、あの原爆と知った。

 1945年8月15日昼、「全員広場へ集まるように」という知らせが来た。天皇の放送があるというので、みな不安を抱えて集まった。果たしてそれは、中・米・英・ソに無条件降伏するという天皇の布告だった。日本人はみな声を殺して泣いていた。日本政府の過ちは、とうとう国と人民に災いをもたらしたのだ。
 ところが、人々は一家離散の浮き目に遭ったというのに、恨み言はほとんど言わなかった。彼らは黙々と家の残骸を拾い集め、整然と並んで配給品を受け取っていた。毎日早くからカゴを背負い、野山へ行って食べられるものを探したり、米軍から出た吸い殻やゴミを拾ってくる。治安が乱れることもなかった。接収に来た米軍に対してさえ、日本人は政府の規定を守って、何の抵抗もしなかったのである。

1) 高座で爆撃のために死亡した台湾人は6人。工廠内ではなく、宿舎に帰る途中の林の中で犠牲になった。その他、名古屋に派遣された者のうち25名も空襲で命を落とした。さらに病死を含めた52人の御霊が、靖国神社に合祀されている(遺骨は、仲間の少年工の帰国時に台湾へ持ち帰られた)。



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