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土匪昔ばなし1~台湾や大陸にいた土匪(匪賊)とは~

日治初期の日本人を悩ませた土匪

いふをやめよ―「正月早々殺伐なる土匪物語りなぞ」・・・。
この一文で始まるのは、『台湾警察時報』昭和9年1月1日号に掲載された、「土匪昔ばなし」という特集記事です。
◎表紙写真は、明治35年の塩水(現・台南市)。台湾から土匪がいなくなった頃です。右端に日本人巡査がいます。左側に立つ台湾人たちは、日本統治7年後でも、まだ弁髪をしていた様子がうかがえます。

日治時代初期、台湾にやってきた日本人を何よりも悩ませたものが3つあり、「三禍難」と呼ばれました。
1つは風土病。高温多湿に不衛生な環境もあって、マラリヤほか病気の巣窟状態でした。
2つめは蕃人と呼ばれた先住民。山地へ入ってきた相当数の日本人が「首をはねられた」ようです。
そして3つめが、今回取り上げる土匪。既出記事『英国人宣教師が見た日本統治の始まり』で登場した「匪賊」のことです。統治初期の資料にひんぱんに出てくるこの言葉について、警察時報の記事を元にお話していきます。太字は原文まま、「」内は原文を元にまとめたものです。

土匪とは何ぞや

 日本のちょうどこんなものさ!と例示する訳には参らぬ、全く台湾と支那に独特のものであった。

「十数~数百人が徒党を組んで白昼人家を襲撃し、金銀から家畜まで持ち去るほか、婦女子を人質として略奪する。この時は顔に白粉を塗って人相を変え、青竜刀や銃槍を以て押し寄せる。普段は容易に近づけない山塞(山間部のアジト)に立てこもっている」
そこで、昔の内地(日本本土のこと)の山賊がややそれに近いかもしれぬ としています。

しかし、日本の山賊は町までは来ません。言ってみれば、盗賊と山賊を足してさらに凶悪化した集団という感じでしょうか。とにかく、こんなのがかつては台湾の至るところにいたそうです。
 しかし、清の役人たちは本腰を入れて取り締まることはしませんでした。そこで、「富豪の中には利益を提供して、惨虐を免れていた」というのだから、盗賊+山賊+暴力団という姿が浮かんできます。

何が土匪にせしめたか

 その理由を記事では、古往今来支那には、まことに民衆のための政治といふものが行はれてゐない からだと断言しています。
「(中華圏では)古代から強いものが支配権を奪う簒奪(さんだつ)が伝統で、一般人も欺瞞利己に走っている」
加えて台湾の場合は、
「渡来民の大部分が海賊の亜流で、殺伐の気風は元よりあり、それに福建・広東の2種族が乱闘を繰り返す」不安定な社会、そして「清の役人は2,3年で大陸へ帰るので、よほど出来た人以外は、任期中に私腹を肥やすことに熱心。代々そういう先輩を見てきた後任も同様だった」と分析し、
良い政治の行はれえる余地がどこにあらう と結論付けています。

領台以後の土匪事情

 明治28年6月に台北で「大日本帝国の台湾統治を開始する」宣言がありますが、この後からが本当の困難の始まりでした。というのも、
この頃から、土匪と良民の区別が全くつかなくなってしまった からでした。

 当時、台湾人で日本統治を快く思う者はいません。特に土匪は、近代部隊を続々と送り込んでくる日本を脅威に感じました。そこで一般人と土匪が手を組んで、日本への抵抗を始めたのです。
「民衆の中には、土匪のために兵糧を与えて便宜を図るものたちも少なかったらしい」
「土匪も『我々は台湾人をどうするのでもない、ただ日本人をやっつけるのだ』と言って、ただの一人も台湾人を殺していない」。

 以後、民衆が土匪に頼んで日本人を襲わせる、あるいは土匪の襲撃時に日本人の隠れ場所を教えるといった、凄惨な事件が頻発します。この辺は『英国人宣教師が見た~』で書いた通りです。
 日治時代、地域の役員かつ警察補佐のような保甲制度がありましたが、「保甲が働いてくれたなら、土匪の掃討に8年も要しはしない」というので、保甲は特に何の働きもしなかったようです。

 これほど厄介だった土匪に対して、台湾総督府はどんな策を用いて、
明治三十六、七年以降、ことに日露戦争が済んでから渡来せられた人々に、土匪の昔物語をしてみたところが、桃太郎の鬼が島征伐位にしか、頭に響かぬではないか
という状況にまでなれたかは次回で。

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