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英国人宣教師が見た日本統治の始まり~日清戦争直後の台南で起きていたこと~

その1 今回の資料本とその著者について

台湾では、1895~1945年の50年間を日本時代、あるいは日治時代と呼びます。その他、時々見るのが「日據」時代という言葉です。中日辞典によれば、據とは(不法に)占有する・占拠するという意味です。
 正式な講和条約によって、台湾は割譲されたことは周知の事実です。でも私はこの文字を何回も見るうちに、「統治が始まる頃に、不法占拠ととられかねない事実が存在したのだろうか」という疑問を持つようになりました。そのために、日本人でも台湾人でもない立場から書いた資料を探していたのですが、そうして見つけたのが、『トマス・バークレー~台湾に生涯をささげた宣教師~』(教文館 2009年)です。
トマス・バークレー | 教文館キリスト教書部 (kyobunkwan.co.jp)
 
トマス・バークレー。
1849年スコットランド・グラスゴー生まれ。イングランド長老教会の宣教師として同75年に台湾へ派遣され、旧新約聖書の台湾語翻訳、台湾語のローマ字読みの普及、台南神学校の設立など、60年にわたって文化・教育面で多大な足跡を残しました。1935年、台南で死去。彼はどの民族にも公平で温かく接し、多くの日本人からも慕われました。葬儀の折は、台湾総督や台南州知事、台南市長の悼辞も読み上げられました。
 本の著者は、同じくイングランド長老教会の宣教師で、1912~40年に台湾に派遣されたE・バンド。バークレーの回想録を元に書いた伝記で、原本は1936年に東京で出版されました。
 
清代の台湾では「教会は外国支配の手先」とされ、襲撃されることもありました。その後次第に、台湾人クリスチャンが増えていきます。つまりバークレーは、台湾人は心が通じれば愛すべき存在となる一方、台湾で外国人が生きる難しさも十分知っていたといえます。それは著者のバンドも同様です。
 そういう意味でこの本は、台湾側に偏りすぎない目線で当時の状況を描いた、貴重な歴史資料といえるでしょう。
 二人のイギリス人はともに日治時代の台湾に長く住み、現地の事情や情勢を熟知しています。しかもバークレーは清から日本へ移り変わる状況の体験者であることから、記述内容はかなり信頼できると思われます。それでは同書を道案内として、日本統治がどのように始まったか見ていきましょう。
本文の太字部分は、同書にあるバークレーの回想録からの抜粋
表紙写真は、台南随一の史跡にして名所の赤崁楼です。
 
1895年(明治28年)4月17日に下関条約が締結され、台湾割譲が決まります。しかし、日本領になることを清は台湾人に知らせなかったので、
台湾人は『自分たちは日本に負けていない』と主張、共和国=台湾民主国を建国し、最終的にはそれを清に再統合することを目指した
 台湾統治を真剣に行わなかった清に台湾人が戻りたがっていたとは、日本がいかに恐ろしがられていたかがうかがえます。そこで総督府は2年間の猶予を与えて、「日本人になりたくない者は大陸へ去っていい」と通達を出しました。それは結局は「日本が嫌なら出ていけ」ということですから、台湾人の抵抗は激しく、
日本人は反乱を鎮圧し島を奪還するために、討伐軍を送り込まなければならなくなった

山口県下関市にある春帆楼が、講和条約の締結会場だった。
同旅館は今も健在で、敷地内にある日清講和条約の記念館には、
調度品や古写真などが無料公開されている。

 台湾民主国のリーダーには、台湾にいた清の武官で台湾でも名声の高い劉永福が担ぎ出されました。なお下関条約締結の時点で、清の役人と軍隊はほとんど帰国しています。そのため共和国軍にいたのは台湾人のほか、帰りそびれた清兵、金で雇われた傭兵でした。
 共和国軍を鎮圧するために、5月29日、日本軍は台湾北部の墺底に上陸します。共和国軍の士気は低く、大した戦闘もないまま、6月7日に台北に無血入城(別資料によれば、治安回復のために地元民が日本軍を招き入れたとも)。17日には始政式を行い、「大日本帝国の台湾統治を開始する」と宣言しました。日本軍は次に南部へ進撃しようとしますが、
ちょうどその頃雨季が近づいていたので、それ以上の進軍を延期した
 この頃、
台湾中部のカトリック教徒は、致命的な過ちを犯した。彼らは行列をなして日本軍を出迎えた。そうすれば新しい統治者の愛顧を得られると考えたからである。ところが日本軍が去った後、彼らは暴徒に取り囲まれ、「日本人と結託している」と糾弾された
 カトリック教会が破壊され、宣教団の女性たちはアモイ(中国・福建省)へ避難しました。

 雨季が終わると、日本軍は進軍を再開します。乃木将軍率いる援軍も南部に到着して、高雄を占領。北白川宮率いる第3軍(近衛師団)は北部の部隊と合流して、台南砲撃を準備しますが、宮は台南到着後に熱病で死去しました。ところがこの本によれば、
宮は北部でゲリラに鎌で切られて重傷を負って死去したが、日本国内ではマラリヤで病死と発表
とあるのです。この噂は私も台湾で何度か聞きましたが、「日本軍に一矢報いたい気持ちから生まれたのだろう」と聞き流していました。でも、この本を読んでからは、ひょっとして事実?と思い始めています。
 真偽はともかく、こういう推理をめぐらすことも歴史を探求していく上でのおもしろさですね。

さて、
日本軍が勝利を収めながら南進している時、クリスチャンに対して非常に有害な噂が広がった。日本軍と結託しており、彼らのスパイとして手助けしているというのである
というのも、日本軍は台湾人クリスチャンを通訳として好んで使ったからでした。「クリスチャンは報酬を受け取ったら約束を守る」という信仰人ならではの誠実さが、裏目に出たわけです。
 打猫(現在の民雄=嘉義の近く)や麻豆では、クリスチャンの殺害事件まで発生します。バークレーがいた台南でも、クリスチャンに対する台湾人の敵意は強くなる一方でした。
 こうして外国人宣教師たちは、日本軍と台湾人の両方におびえることになります。

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