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ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った(原題:我替天皇造飛機)6

その6 晩年

 養鶏は簡単そうに見えたが、実際は何もかもが勉強だった。休みの日を使っては、他の養鶏場へ見学に出かけ、帰るとケージやエサ箱をそっくり真似て造った。鶏の年齢によってさまざまな大きさのケージを夜通しかけて造ったし、その他にも養鶏雑誌を見たり、ヒナが早く育つようにエサの配合も考えなければならない。昼間、ぼくが出勤している間は家内がエサをやり、夕方ぼくと子供たちが帰宅すると、一家総出で鶏の世話をした。その頃は休みがなく、毎日ずっと忙しかった。子供たちは勉強のかたわら、よく手伝ってくれた。全く彼らの子供時代は、鶏や卵とともにあった・・・といっていい。
 養鶏業は元々副業のつもりだったから、まさかそれが当たるとは思いもしなかった。民国50年(1961年)頃から軌道に乗り、200羽から2万羽になったのである。世話は大変だったが、収入が増えて苦労は感じなかった。
 
 忙しい忙しいといううちに時間はあっという間に過ぎ、子供たちも大きくなった。彼らに何かを教えたり、期待をかけることはなかったが、それぞれ教育の道に進んでくれた。神様はバカ正直な人間を助けてくれるのかもしれないし、養鶏の大変さが子供たちの最高の教材になったのかもしれない。
 
 民国79年(1990年)、ぼくは製糖工場を定年退職した。この時すでに養鶏業のピークは過ぎていたので、規模を次第に縮小し、今では趣味のようになっている。半生を注いだ養鶏業は子供たちの教育に役立ったし、ぼくの老後のゆとりにもなっている。ぼくの人生の黄金期は、定年後にやっと始まったようである。毎日カラオケへ行ったり、社交ダンスを楽しんでいる。 
 海外ツアーへもよく行く。一番好きな旅先は、ぼくの第2の故郷・日本だ。日本へ行くたびに、ぼくはガイド役を買って出る。一たび日本語を話し始めれば今でも流ちょうで、各地の史跡のいわれはすらすら出てくる。
 
 東京に戦後の面影はもうないし、原爆を落とされた広島もとっくに賑やかな街になっている。
 天皇のために飛行機を造った小僧も、すっかり年を取ったものだ!

あとがき(手記をまとめたAさんの娘執筆)

 父が日本へ行って飛行機を造った話は、子供のころ耳にタコができるほど聞かされた。当時、歴史の教科書には「日本がどんなに悪い国か」が書かれていたから、父の話は少しも名誉なことに思えなかった。それどころか、日本語をしゃべりたがり、日本時代を懐かしむ父は「漢奸(漢民族にとっての裏切り者)」ではないか?とさえ思ったものだ。
 大きくなって、2・28事件や白色テロについて明らかになるにつれ、飛行機を造らされた台湾人たちはかわいそうだと思うようになった。彼らは子供の時から祖国愛はなく、民族意識の何たるかも知らず、天皇に忠誠を尽くし、知らないうちに敵に仕えていたのだ。日本の敗戦によってやっと祖国を認識したものの、その温かさを知る前に、次は虐殺と差別に巻き込まれていく・・・。
 その頃、父は職場での腹の探り合いを避けて、養鶏業に没頭していた。家族に累が及ぶのを恐れて、父は政治ごとに一切干渉しなかった。家族を養うことと私たちの教育に、ひたすら一生懸命だった。工業が発達していなかった1960年代、養鶏業は本当に大変だった。しかし、機械化が進んで一息つけるようになった時には、養鶏業に参入する人が増えて、元が取れなくなっていた。
 父の印象といえば、夜勤がある日以外は、毎日深夜までケージ造りをしている姿である。私たち兄弟は、そんな父のかたわらで夜遅くまで勉強したものだ。収入は多くなかったが、父は子供へのお金は惜しまなかった。同級生の大部分がハダシで登校している時代でも、私たちには革靴を履かせた。みなが自転車に乗っている時代でもオートバイに私を乗せて、入学手続きのために屏東(台湾最南端の都市)へ送ってくれた。

 自分の母親を早くに失ったり、戦争で家族と引き離されたせいなのか、父は心配性だった。私たちの優秀な成績を無視して、私は屏東、妹はさらに遠い台東の師範専科へ入学させた――地元・台南の師範専科に不合格だったら、お前たちの肩身が狭かろう、というのだ。
 また父は、私たちが政治や組合に関係した活動をすることを厳しく禁じた。政治的迫害に遭わせないためだ。戒厳令が解除になったばかり(1987年)の頃のことだが、私が『蒋経国(1)伝』をやっと手に入れて興味津々で読んでいると、父は何も言わずにそれを取り上げ、跡形もなく燃やしてしまった。
 
 1999年、父は台南県(現在は市)の「模範父親」(台湾での表彰制度のひとつ)に選ばれた。
 家族一同でそのお祝いをしている時、大陸はまたもや沿岸部でミサイルを発射した(2)。一体、平穏な日々は、あとどれぐらい続くのだろうか?
・・・台湾人にとって、これ以上悲しいことはない。

注1)蒋介石の息子。蒋介石の死後、総統に就任。父親に劣らない独裁政治を行った。88年死去。そのあとを継いだのが、台湾人初の総統となった李登輝である。

2)中国は台湾の対岸となる福建省沿岸に1000機以上のミサイルを並べ、台湾独立推進など大陸にとって不都合な動きがあるたびに、「軍事演習」と称して発射を行っている。


 
 

 


 
 
 
 

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