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台湾人の富豪宅を見学した話

義竹という町

 義竹(イージュー)は、嘉義県の南西端にある小さな町です。観光名所は特にありません。
 この町に近い台湾海峡沿いには、大きな水槽を備えたレストランが幹線道路沿いに並び、海鮮料理を食べに台湾人がわざわざ訪れるようなエリアです。私が行ったのは平日でしたが、どこの店もそれなりにお客が入っていました。

義竹から西へ10km足らずの布袋という港町にて。
こんな感じの海鮮レストランがたくさんあります。 
台湾の魚介といえば、大きなワタリガニを私はまず思い出します。
ミソや卵がぎっしり詰まって実に美味。


この町きっての名家で大地主の末裔と知り合いになり、実家を見学させてもらったことがあります。

庶民とはかけ離れた地主階級の暮らし

 身分制度のなかった台湾では、地主こそが貴族のような特権階級だったと思われます。ただし、おうち自体は大邸宅というほどでもなく、平屋の四合院(中庭を囲んで部屋がある中国式の住まい)タイプでした。

学校ではありません、これが正面玄関。
ちなみに表紙写真は、義竹に近い別の地主邸宅。

*古い時代の大邸宅を台湾で見るなら、台北に近い板橋にある「林家花園」を強くおすすめします。
 
とはいえ、敷地自体は広大で、住まい前後の庭はそれぞれが学校の校庭ぐらいあるのです。前庭にはアボガド、レンブ、マンゴーなどの果樹がたくさん植えてあり、後庭は畑。家畜はいたでしょうし、所有地には田んぼもあったはずですから、私有地の中で完全自給自足が可能だったのではないでしょうか。

 前庭には、使用人住居がいくつか残っていました。正直、物置か農作業小屋かと思うほどの粗末で小さなものでした。
 それを抜けると2階建ての楼閣のような門(日本の大きな寺院の門のような)が立っています。土匪がはびこっていた時代は、敷地の門を閉ざしてここから応戦したようです。
 門を入ると中庭で、そこには井戸と水場がありました。
戦前までの台湾(特に南部)では水が慢性的に不足し、庶民は一生に何度も入浴できないような生活をしていました。そんな時代、敷地内に自家用井戸と風呂場を持っていたとは、いかに贅沢なことか。建物の大きさ豪華さではない、これこそが富の象徴だったといえます。

日本式の生活をしていた?かつての台湾富裕層

 中庭に面した部分はぐるりと廊下になっており、それに沿って部屋がコの字型にずらりと並んでいました。驚いたのはその半分以上が畳敷きだったこと。障子、床の間、押し入れまで付いた、立派な和室です。

タンスなどの家具は、ほとんどが東京から運ばせたものだそう。

 とある部屋で、ご当主(日治時代の生まれなので、日本語が比較的堪能)が「ボクの両親」と、ひとつの写真立てを取り上げました。
 そこには上等なスーツを着た男性と、モガっぽいドレスに毛皮をまとった女性が写っていました。二人とも俳優かと思うほどの、すごい美男美女! 日治時代、一族の男性のほとんどは東京に留学経験を持ち、中には恋愛結婚した日本人女性を連れ帰ってきた方もいるそうです。

 戦争が激しくなるまで、ご当主の両親は毎年東京へ買い物旅行に出かけていました。そして、そこで買いこんだ服や家具に囲まれた暮らしをしていたそう。輸送費だけでも、どれほどの大金がかかっていたのでしょうか。
 やはりこういう家は庶民とはかけ離れた生活をしていたのだと、改めて感じました。
 私が聞いた話でも、預金額だけを見て「当時の台湾人はみな貧しい暮らしを強いられていた」という一派もいるそうですが、「台湾人は銀行預金よりも、現金や土地で財産を持っていることが多かった」そうです。
 
 この見学を通して、当時の台湾人富裕層から見て日本がどのような存在だったかが、その一端がうかがえました。
 ちなみにご当主は戦後は台南へ移って教師となり、同僚教師と結婚、定年後は不動産経営をして、悠々自適な暮らしをしていらっしゃいました。今回紹介した実家には、親類たちが時々滞在しているけど、史跡のような扱いになっているそうです。
 
 

 


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