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英国人宣教師が見た日本統治の始まり~日清戦争直後の台南で起きていたこと~

その2 日本軍の台南入城

 そんなある朝、劉永福が大陸へ逃亡したという知らせが届きました。するとその日の午後、バークレーの元を有力商人たちが大勢訪ねてきました。今や台南では官吏たちも全員姿を消して、無政府状態に陥ってしまったというのです。
彼らが恐れていたのは、そのことが知れ渡ったら群衆が略奪を行うだろうということだった。商人たちの唯一の望みは、一刻も早く日本軍が来て、事態を掌握することだった。そこで、日本軍を連れてきてほしいと私たちに頼んできたのである
◎ここでは、台南入城は台湾人からの願いだったことが明記されています。

 宣教師が日本軍を案内してきたと台湾人に知られたら、クリスチャンがさらに危険な目に遭うため、バークレーは一旦は断ります。しかし責任は商人たちが負うというので、
台南を無駄な流血から救うことさえできたら、引き受けるに値する
という、決死の覚悟で日本軍への使者に立つことにしました。
同行するのは、バークレーの宣教師仲間のファーガソン牧師と、商人たちがつけてくれた護衛たち。彼らは敵と間違われて撃たれないように、
ちょうちんをつけ、賛美歌を歌いながら、暗闇の中を数キロ歩き続けた
 やがて日本兵に遭遇し、農家に宿営していた将校の元に連れてこられましたが、彼の態度はきちんとしたものでした。しばらくして、乃木将軍が待つ本営に案内されます。
将軍は私たちを非常に丁重に迎えてくれた。そして、日本軍を台南に連れて行く役目を引き受けてくれないかと言うので、私たちはまさにそのために来たと説明した。この面会で、私たちは乃木将軍に非常に好感を持った

◎表紙写真は、屏東県枋寮近くにある乃木将軍の上陸地モニュメント。1895年10月11日、乃木率いる第2師団はここから上陸しました。

 
翌朝バークレーたちは台南へ戻ると、商人たちに乃木の言葉を伝えました。それは「武力による抵抗が少しでもあれば、市を徹底的に破壊する」という軍人らしい表現でしたが、ともあれ日本軍の台南入城は平穏に終わりました。この「台南を砲火から救った行為」は日台両方から感謝され、後日バークレーは日本から勲章を授与されます。
 台南は台湾随一の古都ですが、今日史跡散策を楽しめる陰には、バークレーらの勇気、そして日治時代に多くの修復・保護を行った日本人の貢献があることを忘れないでおきたいものです。

台南の大南門。
台南はかつて、8つの門と城壁でぐるりと囲まれていた。

 その後、日本軍は残った共和国軍兵士たちを虐待することもなく、船で大陸へ送り届けました。そういう人道的措置を行った一方では、一部の兵士に
住民に対する手荒な扱いがあった可能性がある
例えば薪にするために台湾人の家の戸を壊そうとした日本兵を、バークレー夫人が追い払ったエピソードが紹介されています。とはいえ、日本兵は略奪や暴行は行わなかったので、
日本軍兵士の行動は、今の異教国家(当時の世界情勢から見て、オスマントルコを指すと思われる)による征服された都市の扱いに比べれば、信じられないほど立派なうえ、彼らの行動を知る多くの人々がヨーロッパ諸国の兵士と比べて勝るとも劣らないだろう
と言っており、
台湾人ですら、軍属(清の軍隊)ほど悪くないと言っているぐらい
とバークレーは賞賛しています。
日本政府は諸宗教を公平に扱ったが、全体としてキリスト教にはより好意的だった
ことも、彼を喜ばせました。欧米の宗教なので、秩序や道徳を備えていると台湾総督府は思っていたようです。

「據」に宿る台湾人の想い

 こうして11月18日、台湾初代総督・樺山資紀は「全島平定」を宣言しました。行軍の過酷な状況を見ると、上陸からわずか半年(中断期も含めて)で全島平定とは、驚くべきスピードです。
 しかし本当の困難はここからでした。統治初期の数年は、
台湾中で頻繁に蜂起が起こり、多くの騒乱があった
日本人住民が警察署に呼び集められ、一夜を過ごしたこともあった
抗日蜂起に加え、匪賊(中国大陸や台湾特有の盗賊集団)の襲撃が絶えず、時として匪賊と一般台湾人が結託することが問題を複雑化しました。そしてこの結託グループを一掃するために、日本軍が無辜の台湾人に手を下す事態も少なくなかったようです。
日本軍は反乱者を鎮圧したが、その際、同時に民衆に暴力を加えたことで強く非難された
日本軍は匪賊を討伐したが、今度は反乱者をかくまったと村人たちを非難し、彼らを処罰するために村々を破壊した。村人たちの少なからぬ人々は、蜂起に全く加わっていなかったのだが
 中でも、中南部の斗六地区で起きた「雲林虐殺事件」は深刻でした。匪賊をとらえるためにやってきた約1000人の部隊は、匪賊の根城へ向かわずに、
村々を焼き始め、30ほどの村が消滅するまでそれを続けた
武器を持たない何百人もの村人が無残に撃ち殺された。日本軍の言い分は、それらの村は匪賊の隠れ場所となっていたので、焼き払う必要があり、村人らも当局に通報に来なかったのだから、明らかに共犯者である、というものだった
 
自分たちの土地を守って抵抗しただけなのに、あるいは日本に何もしていないのに、家を焼かれ、命を奪われ・・・という想い。これほどの武力鎮圧はその後激減したものの、日治時代に大なり小なり台湾差別があったことは事実です。それらが、不法占拠を意味する言葉を今なお使わせる土台かもしれない・・・と私は推察します。
 なおこの事件は日本政府も重く受け止め、関係した将校数人が懲戒処分にされたほか、明治天皇から3000円、日本政府も5000円を、被害を受けた台湾人救済に送っています。
 
 恐らくどの国が台湾統治に乗り出しても、統治初期は泥沼状態だったのではないでしょうか。何しろ、台湾中部以南の人々は、代々土地を開墾し、匪賊から生活を自衛するために、老人や女性でも戦うことに慣れていたといいます。彼らは日本軍の大軍が通る時はにこやかに迎え、少数の時は背後から襲いかかりました。また日治時代に、匪賊と民衆が結びついて日本人を襲撃する事件もたびたび起きています。その際、多数の日本人婦女子もむごたらしく殺されました。
 日本に支配されたくないと台湾人が日本人を襲う。日本がそれを鎮圧する。それに対して、台湾人がさらに日本人を憎悪する・・・そういう状況下では「どちらが悪いか」という議論は、永遠に平行線のままかもしれません。 

屛東県佳冬町では、進軍する乃木の軍勢と地元民が「歩月楼の戦い」を繰り広げた。14時間に及ぶ激戦の様子は、今も地元で語り伝えられている。舞台となった蕭という家(家屋は史跡)では、当時の台湾側の武器なども展示。

 バークレー自身、そういう複雑さはよくわかっていたようです。彼は日本人に対して、
台湾の民衆の気持ちを彼らから完全に離反させたが、それでもなお、彼らが行った行為の中で『武力で脅迫して台湾を荒廃させた』と言えるようなものは何もない
と断言したうえで、
時々私は、むしろ日本人を不憫に思いたくなる。彼らはこの島に多くの血と財をつぎ込んだが、結局、自らの評判を傷つけ、収拾のつかぬ状態に陥るという結果しか得られなかったからである
この回想は統治初期のものですが、次回からはこの言葉が丸で予言のように感じられるこの50年後=日本統治の終焉の話です。



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