見出し画像

代書筆13 日本時代の台湾社会

治安は良かった

 全体として、日本時代の台湾は治安が良かった。派出所には警官が一人いるだけなのに、何の問題もなかった。たまに乱暴者がいる程度だった。善化には賭博場もあったが、賭博は違法なので行く人は少なく、私も様子はよく知らない。合法的な遊び場としては、よそ者が経営する射撃場などがあった。ヤクザが出入りしていたようで、警察も巡回していた。当時の日本の警察は正直で、秩序の乱れもなかった。

昭和6年の台南市街。
「台南銀座」と呼ばれていた繁華街で、現在の中正路にあたります

医療・衛生事情

 当時は薬が高く、だいたい何角もかかった。注射は1回1円だった。年老いた父が入院した時は、家族はみな忙しかったので、私一人で看病し、毎日病院へ行っては床に布団を敷いて付き添った。半年の入院で、かなりの金額がかかった。その頃の病気といえば風邪か下痢が多く、漢方医に見せるか薬をのめば、だいたい半分は良くなる。医院に行くのはよほどのことだった。善化には2軒の西洋医があった。どちらもちゃんと医専を卒業して開業したところだったので、地元では信頼されていた。
 置き薬を頼む家庭もあった。袋の中に10数種類が入っており、担当者が月1回巡回してきて、使った分の金額を請求し、ついでに薬を取り換える。今でも日本はこの方式が、山里など不便な地域で行われている。 

 ずっと昔の人は、めったに入浴せず、「一生に3度だけ風呂に入る」と言われた=生まれた時、婚礼前、死んだ時の合計3回である。それは、水汲みが大変だったからだ。昔は水を得ること、それを運ぶことは大変だった。だから、一おけの水でさえ何回も使いまわした。同じ水で家族全員が顔を洗ったぐらいだ。そんな風だから、たいていの家に風呂はなく、銭湯に通った。台南の銭湯は1回5角だった。わが家には風呂桶があったので、私は毎日入り、銭湯にはめったに行かなかった。

 便所も多くの家になく、市場のそばにある公共便所を使った。家にあっても屋外か、人によりおまるを使った。おまるは便利だが、匂いがして不衛生だった。 

昭和18年の善化の街並み。
右側に見える「廣瀬代書館」は、孫氏が弟子入りしていた日本人代書屋の事務所です

日台の結婚

 日本時代の初期は禁止されていた*が、大正時代に入って可能になった。台湾人が日本へ留学した先で知り合った日本人女性と結婚する例が多く、台湾人女性が日本人へ嫁ぐことは少なかった。善化も同様で、日本人妻は結構多かった。製糖会社勤務の某は、兵役で日本へ行った時に看護婦と結婚した。何人かの名士の息子たちも日本留学し、それぞれ日本人妻を連れて帰ってきた。鉄工所経営者の妻は、彼が日本で仕事していた時に結婚した沖縄の人である。

 一方、台湾人女性が、台湾人以外と結婚した例は少ない。あまり良くない話を聞いたことがある。台北に美人がいて、日本人と結婚した。良い暮らしを送り、子供も生まれた。のちに夫は帰国してしまい、身寄りがない彼女は食うに困って身売りしたという。

*禁止というより、法律上は認められていなかったという方が正確です。当時の台湾では日本人を「内地人」と呼んでいたので、「内台結婚」といいました。中には、台湾人富豪の第2、3夫人になる日本人女性も少なくありませんでした。また、山間部へ赴任した日本人警察官が、原住民女性と結婚することもありました。

いただいたサポートは、記事取材や資料購入の費用に充て、より良い記事の作成に使わせていただきます。