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代書筆7 代書業を始める

「棺おけ以外何でも売ります」

 私が当時よく使った店の宣伝文句が、「玉記は、棺おけ以外何でも売ります」。食品、缶詰、酢、日本麺(そうめん)、筆、薬、衣服、刃物、食器、タバコや酒もあった。注文を受けて田舎にサバヒ(台南名産の養殖魚)を買いに行ったこともある。品物の仕入れ先は主に台南で、相手先はだいたい決まっていた。自分で行くこともあれば、代行業者に頼んだり、米や醤油、缶詰などの重いものは牛車(牛に引かせた荷車)に頼む。

 牛車隊がいつからあったかは知らない。たぶん清代は行商人が使い、のちに隊列を組むようになったのだろう。
 普通は木造四輪で、荷台には鉄の箱が乗っている。善化から台南へ行く牛車隊は1チーム10数台で、1台に牛1頭、それを持ち主一人が操った。深夜12時に集合し、主人は荷台の上で寝る。毎日のように往復しているので牛は道を覚えていて、ちゃんと進むのである。朝、台南市街の北門に着くと、それぞれ注文書を持って指定された店で品を買い、また集合して善化へ戻ってくる。こうすると集団だから安全なのだ。

◎表紙は1958年、善化市街を進む牛車隊。本書の内容はこれより30年ほど前ですが、だいたいの様子はわかると思います。

 昭和に入ると、缶詰がだんだん増えていった。カニ、マッシュルーム、北海道産アスパラなど、いろんなものがあった。どれも日本で製造され、台南の商社が輸入したり、日本の商社が台湾の支店で販売した。陶磁器や、足袋やぞうりも日本から運ばれてくる。日本人の包装や箱詰めは「技術」といえるほどレベルが高く、見栄えも良い。

 玉記の経営は上々で、ひと月の売り上げは200円以上にもなった。他の商売人同様、もっと何か売れないか、私もいつも探していた。
 例えば豚の頭や足、内臓を日本人は食べないが、台湾人は美味しくて、栄養も一番あるところと思っている。だから私は日本でこれらを買い付けて、台湾で売ろうとひらめいた。しかし戦争が始まると、輸送手段がないため断念した。
 やがて私は機会を得て、醤油の製造販売も始めた。そこで玉記を弟に任せたのだが、弟は遊びが好きで、店をきちんとやらなかった。そのため経営は傾いていき、戦時中に閉店する羽目になった。

代書屋を開業

 玉記商行や醬油製造をする中で、代金の請求や貸し付けの回収などで代書屋に手続きを頼むことがあった。代書屋で無理な時は弁護士に頼んだ。そういうやり取りの中で、法律について調べることがだんだん趣味のようになっていき、いつしかこれを商売にしようと思った。当時、大部分の日本人代書は「書生」と呼ぶ助手を雇っていた。大正12(1923)年、私は広瀬秀臣*という代書屋の書生になった。そこでは通訳のほか、掃除でも何でもやった。
 そこに9年通った後、昭和7(1932)年、台南の司法代書人試験に合格した。受験者は80~90人いて、大学を卒業した法学士も含まれていた。試験は筆記と口述があり、筆記は毛筆で書いて回答する。合格者はたった7人で、女性はいなかった。

 こうして台南地方裁判所の許可を得た私は、善化に「司法・行政 孫江淮代書館」を開いた。当時の善化には日本人と台湾人の代書屋が2人ずついて、私が最年少だった。

昭和12(1937)年の事務所の写真。
左端に代書館の看板が。

 司法系の代書屋は民法や商法などあらゆる法律を理解し、かつささいな決まりまで知っていなければならない。日本時代、市販されている法律の本は少なかったので、仕事のかたわら、私は朝鮮や日本の法律誌まで取り寄せて勉強した。

*広瀬秀臣は本シリーズ終盤にも登場するので、その折に詳しく紹介します。

◎書籍では、この後しばらくは代書業や商売に関する法律や経営の話が続くので、内容は省略します。ここであらためて、同氏の前半生をざっくり紹介します。

明治40(1907)年 誕生
15才 保甲書記
16才 玉記商行を開店。醤油製造販売を始める。広瀬代書人に弟子入り
19才 結婚
21才 善化商工協会を設立
25才 代書屋を開く

 この後、孫氏は代書業を続けながら(1960年代まで続けた模様)不動産業、果樹園、食品や油脂、肥料などの会社および台北のホテルを経営(共同経営も含む)するほか、地域のさまざまな役員にも就任します。

 別記事をはさみ、その後は日本統治時代の台湾社会、さらに終戦から2.28事件の様子などについて書いていきます。どうぞお楽しみに!

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