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ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った(原題:我替天皇造飛機)2

その2 高座での日々

 横須賀にいた頃のぼくは、午前中は日本人工員の雑用をし、午後は学校で授業を受けたり、製造知識を学んだりした。高座へ戻った後は、戦闘機の外装取り付けを担当した。
 起床は毎朝5時。工廠までは3kmもあったから、朝食を済ませるとすぐに宿舎を出る。往復とも歩きで、道々軍歌を歌いながら気持ちを奮い立たせた。作業は辛かった。だが、日本のどの学校も授業はとっくになくなっており、教師が学生たちを連れてぼくたちと同じ作業をさせていたから、恨み言は全くなかった(1)。中でも、日本人女学生(2)がぼくたちのためにニコニコしながら掃除したり、お茶を入れてくれる時は、「自分たちもお国の役に立っているんだなあ」とうれしく感じたものだ。
 
 ぼくたちの食事といったらひどいもので、油をしぼった後の大豆かすを混ぜた玄米ごはんに、皮や葉まで入れた大根汁である。汁はよそってすぐは飲めない=中に泥が混じっているからだ(注:泥が沈むのを待つという意味らしい)。お椀の底に残ったものも、とても食べられなかった。肉や魚は出ない。高座に来て間もなく、ぼくたちは全員鳥目(夜盲症)になった。
 そういうわけで、ぼくたちはいつも腹を空かせていた。どんなものでも、それが生臭い肝油でも、おいしく感じられた。日本では砂糖が生産できないため、ぼくたちは台湾から持参した砂糖(3)を近くの農家へ持って行っては、大豆やイモの葉と交換し、宿舎でそれを炒めて食べた。サツマイモの葉をゆでたものは、ぼくたちにとっては上等のおかずだった。今でもその味を覚えている。

 

昭和18年頃の台湾の国民学校(小学校)の一コマ。
「増産報国」をかけ声に、校庭でサツマイモなどを栽培した。


 ぼくたちの日常は、軍隊式の規律にしばられていた。その基本が服従と犠牲である。罰を受ける時はその場にいた全員が受ける、たった一人がミスをしても、宿舎の全員が罰を受けねばならない。毎日が緊張の連続だった。自分のちょっとしたことで他人が巻き添えを食うことが、本当に怖かった。だからいつも仲間で注意しあって、自分がいわれのない罰を受けないようにした。
 
 日本の冬はひどく寒い。台湾人が経験したことのない寒さだ。しかも日中の作業で疲れ切っているし、栄養状態も悪いから、朝早くになかなか起きることができない。仲間が寝坊したために、罰を受けるのはしょっちゅうだった。一番多い方法が、互いの頬をビンタし合うというものである。それをためらっていると、幹部たちに叩かれて目の前がクラクラした。「幹部」といっても、それは台湾人なのだ。ぼくたちより早く日本へ来た連中で、後輩を管理するために訓練されただけに過ぎない。自分たちが台湾人であるとか、民族意識とは何であるかなどと子供時代から教えられたこともないから、虎の威を借る狐さながらに、同胞に辛く当たっても平気なのだ。
 罰を受けた後、ぼくたちはよく部屋の仲間と抱き合って大声で泣いた。作業の辛さ、飢え、寒さ、故郷を思う気持ちが入り混じって、ぼくたちを苦しめた。
 幹部から厳しい罰を受けたことは、一生忘れられない。何十年経っても、心の奥がかすかに痛む。

1) 少年工たちの来日当初は、きちんと授業があった。講師陣は著名な大学教授や中学校長などが務め、製図や理系の授業も充実していたという。ただし、戦局の悪化のために作業時間が次第に増え、授業はなくなった。もっともこの頃には、日本の学校でも授業らしいことはなくなっていた。

2)女学校の生徒が、挺身隊として工廠のサポートに来ていた。

3) 日本統治時代の台湾では、製糖が最も重要な産業であり、台湾産の砂糖は多大な利益を上げていた。

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