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代書筆18 わが師匠・広瀬秀臣

著者・孫氏の師匠だった日本人

 私の代書業の師匠・広瀬との関係は深い。
広瀬は長く変わったヒゲを生やしていた。彼は利口な猫を飼っており、とてもかわいがっていた。その猫が死ぬと皮を記念に取り、遺骸は埋葬し、読経して葬式を行った。

60才頃の広瀬

 広瀬は昭和20年、終戦前に狭心症で亡くなった。ある朝のこと、相談事があって私が訪ねると、熱があると言っていた。午後になると、さらに具合が悪いと言うので、家族は急いで医者を呼びに行ったという。私も知らせを聞いて駆け付けたが、医者が来た時にはすでに息絶えていた。
 日本の風習では、葬式は料理や出棺まで近所が取り仕切るという。喪主は何もしないそうだ。彼の息子も若かったので、葬式以後の諸事も私が切り盛りした。

広瀬と「台湾で神になった日本人・義愛公」との縁

◎ここからは、広瀬秀臣についての解説です。
彼は明治元年生まれ、群馬県沼田市の士族出身。日治初期に渡台、嘉義・台南県の巡査から警部補になり、大正に入って代書屋に転職しました。
 義愛公こと森川清治郎が明治35年に自決した後、妻ちよと幼い息子・眞一が残されました。ちよが再婚した相手こそ、警部補時代の広瀬なのです。再婚は森川の上司が世話したといわれます。おそらく森川を死に至らしめた罪滅ぼしだったのでしょう。ところが1年もしないうちに、ちよは病死してしまいます。その後広瀬は再婚。実の子が次々生まれても、眞一を我が子同様に世話し、後妻の故郷である鹿児島の中学へ進学もさせています。眞一はその後教師になり、嘉義や台南地区の公学校の校長として各地に赴任、戦後は東京へ引き揚げ、昭和32年に病没しました。広瀬の子供たちとは、亡くなるまで家族ぐるみで交際したそうです。

 孫氏は代書屋として独立した後も、広瀬を終生「師匠、恩師」と慕い、その最期を看取った一人でもありました。広瀬はかなりの変人だったそうですが、人の面倒見はとても良かったそうです。ちよとの結婚は形式上に近かったようで、周囲には「眞一は友人の子」と紹介、孫氏でさえ真実を知ったのは相当あとのことでした。
 孫氏と、広瀬の子や孫、眞一夫妻の交流は終生続きました。私はかつて義愛公について調べていた時、義愛公研究の第一人者の紹介で、生前の眞一夫妻を知る孫氏と知り合いました。過去記事もご覧ください。表紙写真は、義愛公をまつる廟がある嘉義県の副瀬村。

 眞一は無口で穏やかな性格で、実の父母については何も語ったことはなく、当時の男性には珍しく奥さんを大切にしていたようです。夫人との間に子はなく、森川清治郎の身内(山梨県)の子も早世しており、義愛公の血筋は絶えています。

公学校の記念撮影での眞一=最前列中央。この頃は30代後半~40代前半と思われます。
元の紙写真がピンボケ気味+それを撮影してアップにしたのでさらに不鮮明ですが、
それでも美男だったことがわかります。



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