見出し画像

さらば蓬莱2~日治台湾の落日~

その2 なぜ引揚げることになったか

 戦時中、台湾も激しい空襲を受けましたが、米軍は沖縄上陸へ向かったため、台湾は戦場になりませんでした。そのため、台湾軍(台湾にいた日本軍)および台湾総督府の機能はほぼ無傷で、大きな混乱はなかったのです。また元々が食べ物の豊かな所ですから、終戦後はただちに食べ物が出回りました。さらに、蒋介石があまりに有名な「以徳報怨(恨みに報ゆるに徳を以てす)」布告を出し、行政長官の陳儀(1)も「日本人と仲良くやっていこう」と演説したこともあり、台湾人の報復は日本人が心配したほどではありませんでした。
――ところで、蒋介石たちは本当にそう思っていたのでしょうか? 要は、共産党との内戦で疲れ切ったうえに、今度は台湾に来て日本人と戦う余力はない。日本時代の遺産をそっくりもらうためにも、日本人にはすんなりと出ていったもらった方がよかろう・・・と考えたにちがいありません。
 しかし、私がお会いした元引揚げ者はいずれも、「蒋介石のおかげで無事に帰って来られた」と語っていました。その方々にしか分からない心情もあるでしょう、何も知らない人間がそれを否定できません。
 
 1945年10月15日に国民党軍が台湾にやってきて、25日に台湾軍の無条件降伏と総督府の機能停止を受け入れる調印式が行われました。この日から、台湾は中華民国となりました。
 それでも円はまだ使われ、日本人も同じ住まいで暮らしていました。ただ国民党が官公庁や会社を接収するにつれ、仕事を失う日本人が続出し、道ばたでものを売る人々が急増しました。それでも大半の日本人は、台湾に残ることを希望していました。
 それは、①生活の基盤が台湾 ②台湾の治安が比較的平穏だった ③日本は住居・食糧不足だったことが理由です。「今の日本は食べ物がない、台湾に2,3年いなさい」と言ってくれる台湾人も多かったといいます。日本政府も、台湾は物資が豊かで他の外地ほど危険ではないため、「日本人送還は数年待ってほしい」と中華民国に申し入れていたそうです。

 ところが12月になって事態は一変、軍関係者の送還が始まります。「次は民間人」「いや、民間人は希望通りにできる」という噂が飛び交いました。そして(地域によりますが)1月下旬から2月中旬にかけて、引揚げの通達が日本人の元にまわってきました。留用(業務を大陸人に引き継ぐために)で残される人々を除き、全ての日本人は帰国しなければならなくなったのです。台湾で築いた何もかもを残して・・・。
 
◎表紙写真は、高雄の駁二芸術特区。引揚げ者たちも使った旧高雄駅や高雄港に近く、現在は線路跡や倉庫を利用したアート&観光スポットになっています。写真奥には高雄のシンボルタワー・85大楼が見えます。

引揚げの準備

引揚げ者の持ち物は、一人につき以下のように決まっていました。
・現金1000円
・日用品(洗面道具、調理器具、筆記用具、石けん等)
・衣服(夏冬各3着。着ている分は無制限だったので、みな着ぶくれしていたとか)
・布団(2枚。着物を分解して布団に仕立てた人もいたそうです)
・本(歴史や戦争と無関係に限る)
×美術品、武器類、宝飾品はダメ
 規定を破ると、隣組全員が罰を受けるといわれました。わずかな点数しか持っていけないため、それらを上等なものに買い替える人が続出したそうです。また本土では甘味が極度に不足と聞き、帰国後に食料と交換するために、台湾特産の砂糖や羊羹を買い集めた人も多くいました。また引揚げの準備として、台湾で身内を亡くした人は、墓地に入っていたお骨を白木の箱に詰めなおしました。
 当時の引揚げ者の写真を見ると、一様に大きなリュックを背負い、両手に荷物、畳表をはがしたムシロを抱えた姿です。それでも、出発まで自宅で過ごすことができ、持っていける物があった分、他地域からの引揚げ者に比べたらマシだったといえるでしょう。
 
 出発は隣組単位で地元の学校や駅などに集合後、引揚げ者用専用列車に乗せられ、南部は高雄港、北部は基隆港へ運ばれました。途中、集合場所に台湾人が待ち伏せしている、台北駅に暴徒が押しかけた等の噂が流れ、日本人たちは生きた心地がしなかったといいます。が、結局はデマでした。
 それどころか、多くの駅に日本人を見送る台湾人の姿があり、「元気で!」とか「先生!」と呼びかけるシーンがたびたび見られたのでした。台北駅前では視覚障碍者たちが「日本人は我々にも教育を与えてくれた」と演説。線路沿いでは、日の丸の小旗が振られることも珍しくなかったそうです。
 

引揚げ船を待つ人々

 日本人はみな静かに整然と行動しました。今後への不安や、あちこちに米兵や中国兵がいる緊張が大きかったはずなのに、幼児でさえ泣きも騒ぎもしなかったそうです。
 東日本大震災後もそうでしたが、これが日本人というものなのでしょうか。引揚げが進む1946年3月末、台湾省政府機関紙に、『恐るべし日本人』という記事が掲載されました。
――「全財産を捨てなければならないにも関わらず、彼らは平常のごとくに静かであった。天も恨まず、人も呪わなかった。取り乱しもしなかった。これは一人や一家のことではなく、ほとんどがそうであった、我々は日本人が引き揚げていく整然たる行列を見るたびに、心中無限の感慨を感じないわけにはいかない」
 
 引揚げ船はアメリカの貨物船を中心に、旧日本軍の軍艦(大砲などは撤去済み)が使われました。どれも客船ではないので、船内には2、3段になった荷物棚があるだけです。たいてい1隻に数千人が詰め込まれ、スペースは1畳あたり4人という超過密ぶり。船内は人と荷物で埋まり、歩くのも大変だったとか。トイレは甲板の2か所のみ。船内の上下移動がまた大変で、ハシゴのように急な階段しかありません。こんな船に、老人や身重の女性も乗せられたのです。
 
 船に乗った人々は荷物を置くと、次々と甲板に上がってきました。台湾との別れが迫っています。戦争末期に『ラバウル小唄』という歌が流行しました。遠ざかる島影を見つめながら、冒頭の「ラバウルよ」の部分を「台湾よ」と替えて口ずさむ人もいました。
 さーらーば台湾よ また来るまでは・・・。
 基隆港は三方を小高い丘に囲まれています。引揚げ船が出るたびに、その丘のあちこちで日の丸の小旗が振られていたそうです。時には、小舟が引揚げ船のあとをしばし追ってきたこともあるとか。
 過酷なだけの統治であったなら、台湾人がいかに優しい民族としても、このような光景が出現しえたでしょうか?

現在の基隆港。大きな港ですが、釣りをする地元人も多いです

 食事は1日2回、おにぎりか雑炊が少し出るだけ。足も伸ばせない船内、さらにみなひどい船酔いにも悩まされ、衰弱死する人も結構いたそうです(死亡者は海に水葬にされました)。引揚げ港に到着すると、DDTを散布された後、各種手続きを済ませ、無料の引揚げ者専用列車で各地へ向かいました。しかし、「そこからが大変だった」と、多くの元引揚げ者は述懐します。
 頼りの実家が空襲で焼失していたり、台湾で長く暮らすうちに親類との縁は切れ・・・。時は食糧難の時代、わずかな縁を頼って何人も転がり込んできたら、嫌がられても仕方ありません。現金や物品は数か月で底を尽き、居づらくなって自殺した人、帰国後5年経ってもまだ馬小屋や公民館で生活している人もいたそうです。日本政府は引揚げ者寮を用意しましたが、全く数が足りません。
 また世間の引揚げ者に対する目は冷たく、「どこの馬の骨か分からない」、あるいは地域で盗難が起きると「引揚げ者の仕業では」と言われたそう。
 夢見た故国での辛い状況に涙した時期もありましたが、昭和30年代に入って日本経済が好転し、引揚げ者たちの生活も良くなってきました。生活に余裕が出てくるにつれ思い出されるのは、懐かしい南の地のこと――「今頃、どうなっているだろうか」。
それでは、日本人が去った後の台湾に戻ってみましょう。
 
1)大陸にいた蒋介石は、日本の敗戦後共産党軍との内戦を再開、台湾にやってくるのは国民党が敗北した後の1949年12月のこと。それまでは陳儀を台湾の行政長官として派遣していた。 

明日へ続く道

「ぼくは天皇の代わりに飛行機を造った」完結で、私は「台湾=親日と断定できない」と述べました。とはいえ、日本が好きな台湾人が多いことはもちろん事実です。その理由としては以下の3つがあげられます。
①   統治時代のインフラ整備
匪賊と病気が蔓延する島を、わずか20数年で摂政宮(のちの昭和天皇。大正12年に台湾行啓)にお見せできるほどに安定・近代化させた
②   戦後世代は高品質な日本製品や日本ポップカルチャーに囲まれて育った
そして特に大きい理由が③戦後の蒋介石政権の独裁政治が悪すぎた

白人の植民地経営より人道的だったとはいえ、台湾人への差別や理不尽はありました。そのため終戦後、台湾の町はどこもお祭り騒ぎだったといいます。台湾人は、同胞であるはずの大陸人に大変な期待をしていました。ところが国民党の兵士はあまりに無知(台湾に来て水道を初めて見た人も多かった)無秩序で、日本時代に教育と公共道徳を身に付けていた台湾人たちを失望させました。そんな心境も、日本人への報復を思いとどまらせた一因だったようです。
 やがて日本人引揚げ後の1947年2月28日に、「2・28事件」が起きます(多くの資料があるので説明は割愛)。これで台湾人は国民党の正体を確信したのです――少なくとも自分たちの味方ではない、ということを。事件の全貌と犠牲者は、今なお完全に解明されていません。
 そして蒋介石がやってくると日本語使用の完全禁止や日本人の銅像や碑・墓石の破壊が始まり、さらに家庭以外で台湾語を使うことまで禁止、台湾の地名は大陸の地名に変えられていきました。
 日本は統治開始後、清朝の制度や台湾の風俗を入念に調べ、それに合った行政システムを作りましたが、蒋介石政権は大陸式を無理にはめこんだだけでした。蒋介石は、近代化された土地と日本人が残した資産が欲しかったのです。それを手に入れた彼は、当時「世界で最も裕福な指導者」といわれたとか。
 差別はあったものの日本人は公正厳格で、盗難や不正はなかった。しかし今は大陸人が優遇され、治安は乱れ、密告にもおびえる毎日。「日本時代は良かったなあ」となっていくのは、当然のことでした。この時の好感が、80年代末になって民主化が進んだ後も今に続いているというわけです。
 
 そして日本の側でも、東日本大震災のあたりから台湾への好感が年々高まっています。今後は台湾の歴史に対する知識も、同様に広まるともっといいですね。日本時代の建物が残る台湾では、人々はいやが上にも「日本統治」の歴史を認識せざるをえないのに、日本人がそれをうっすらとしか知らないのは奇妙だし、過去の両民族に対しても失礼と思うのです。
 私は子供の時から歴史が好きで、いろいろな本を読んできたつもりですが、それでも統治時代については毎回発見の連続です=それだけ日本人には、まだ知られていない史実が多いということでしょうか。歴史を知って台湾に行けば、現地の見方・感じ方がちがってくるかもしれません。
 
例えば、台湾の南北に走る台湾鉄道(=台鉄)の新竹以南は、日治時代に日本が建設したものです。もし機会があれば、新幹線ではなく、台鉄で南へ向かってみてください。これが建設されていた時代、台湾にいた日本人がどんな日々を過ごしたか・・・そう思いをはせるだけで、私などは胸が熱くなってきます。

旧高雄駅(現在の駅よりずっと港に近い)の近くにて。廃線となった線路は、歴史遺産として大切にされています。

 南国特有の薄いもやが立ち込める中、田園地帯の彼方へ伸びるレールの先には、私たちがまだまだ知らない多くの歴史と日本人の御霊が埋もれています。それをこれからも、私は探っていきたいと思っています。

いただいたサポートは、記事取材や資料購入の費用に充て、より良い記事の作成に使わせていただきます。