八月納涼歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』

いやあまいった、まいったなあ。という気持ちでいるのは、思考を占領されるだけの熱量がそこにあったという事実を認めざるを得ないからだ。

下敷きの坂口安吾の小説は未読、野田作品も初めてという下地ゼロの中、頭フル回転で拝見しました。今月は『団子売り』も観たいし二部の岡本綺堂と十返舎一九も気になるし、しかも夏休みで観客の入りはいいしで、なかなかハードだった(二部は後日観に行きます)。
ネタバレ満載の観劇録なので心してご高覧ください。坂口安吾の原作やら批評やらを読んだらまた何か結びついたり否定したりしたくなるかも知れないけれど、それはまた別稿にて。

手放しに大絶賛、とは正直いかないのだけれど、今でも七之助演じる夜長姫が背後にいるような気すらする。喩えるならば、椎名林檎の『加爾基 精液 栗ノ花』というアルバムに通底しているような不気味さに、まだ浸食されている。
夜長姫、その評価において「美しい」「はかない」と言った形容詞をよく目にするのだけれど、そうだろうか。確かに美しかったけれど、そして気圧される存在感があったけれど、そんな生やさしいものではなくて、むしろ「恐ろしい」と思う(この感覚は花に喩えるなら桜だ)。耳男の耳をあっさりと削いでしまう残酷さ、それは全く理解ができなくて、2012年に七之助が演じた『椿説弓張月』の白縫姫に通じる残忍さではあるものの(あの時の七之助も当たり役だと思った)、あの時と違って切羽詰まっているわけでもなく何の理由も見当たらないから恐ろしい。愉快犯とか通り魔に感じる恐怖と同類。動機が分からないから自分にもその残忍さが向けられる気がして油断できない。サイコパス。そしてその”この世のものと思えないような”美しさや残忍さは、入浴中に俯いて髪を洗っていてふと目の前の鏡を見ると背後にいそうな、帰宅して真っ暗闇の中電気をつけようと思ったら存在を感じるような、そういう類の恐ろしさにも繋がる。ただの人間ではない。加えて、「畏れ」にも通じるものがあるような。そういえば「鬼神に横道なし」って鬼と神を一緒くたにしているよね(現に人間ではないという点で彼らは同じだ)、とか、横道って”おうどう”って読むけど一般的には王道だよね、そしてその反義語は邪道、蛇の道は蛇、ああ、蛇……。

といった思考をぐるぐるさせるだけの魔力があるのがこの作品。魔力といえば桜にも、人を集わせるだけのエネルギーがあるけれど、その足元には死体が埋まっていると言ったのは『檸檬』のひとだったっけ。桜と死の連想。

冒頭のシーン、大量の鬼女と桜の森を見て樹海だと思った。たとえ鬼の面がなくったってそう思っただろう。BGMがCoccoでも疑わない。だから作中でやたら生々しく首を吊る”つな”(縄じゃなくて”つな”が引かれる)が出てきた時も、自然だった。違和感がない。やたらとBGMとして使われるプッチーニの『私のお父さん』、”(死んでもいいから)あの人と結婚させて!”と願った姫は死にました。だからあれは「歌舞伎にクラシックって和と洋の融合!」(だけ)ではなくて、かなり冒頭で提示された伏線だったとも考えられる。

登場人物たちはあるルールに従っている。物語の「中の人」は七五調で話す、そうではない人は七五調を使えない。「中の人」と「外の人」の明確な線引き。そして鬼たちは人に見えない黒子的存在で、死んだ人はエンマとハンニャが迎えに来て鬼になる。だから「七五調を話したい(物語の中に入りたい)!」という欲求が存在する。

そして”人には見えない”存在であるはずの鬼たちを、”見る/交流する”ことができる人が二人だけ出てくる。先の夜長姫と、染五郎演じるオオアマ(壬申の乱の大海人皇子が下敷き)だ。この二人が七五調を失うシーンが何度か出てきた。
”見えないものを見る/交流する”ことができるとき、そこには二つのケースがある。一つは”見えないものを操ることができる”、いわば神、創造主、ルールメーカーの力を持っている場合。そしてもう一つは”そもそも私も見えないものでした”、という場合。さてどちらがどちらでしょうか。

夜長姫の残忍なまでの無邪気さは、まるで子供だ。好奇心からアリをフィルムケースに閉じ込めたり、クラスメイトを”ないもの”として無視したりするあの生き物。夜長姫のなすこと、それは子供の遊び。子供の遊びには、鬼がいる/要る。つまり”われわれでない者”。オオアマは冠を手に入れてクーデターを起こしたかった。そのためには冠蹴り、つまり缶蹴りが必要。クーデターをやってのけた後は、自分の正統性を証明するためにやはり”われわれでない者”が必要で、そこからは鬼ごっこになる。ゲームのルールの変更。ただし子供の鬼ごっこと違うのは、鬼が追いかけられる立場であるということ。必要悪の存在。誰かが鬼を引き受けないと、ゲーム(=国/ルール)が成立しない。そして負けた時点で鬼になるので、鬼は一人じゃない。逃げて隠れる鬼と追う人間、今度はかくれんぼが始まる。勝った者しかルールを作ることはできないけれど、勝つまでルールは作れないので、常に後出し。大富豪のローカルルール、後から言い出す人は「ズルじゃん!」って怒られる。そう、本当はズルなのだ。自分が勝ち続けるための。

物語終盤、夜長姫が耳男に、「もうお前はろくなものを作れない」と宣告するとき、耳男の復讐は終わっている。呪い、つまり願い、もしくは意志のないところに魂は宿らない。だからろくなものを作れない。でも呪い、つまり願い、もしくは意志を向けられたいと思うこと自体がそもそも一種の恋で、いじめっ子がよくやる方法だ。どちらが逃げてどちらが追うか。「今鬼は誰?」勝者は鬼の不在を許しはしない、ここでもまた鬼ごっこ。

七之助は確かに病的なまでに美しかったのだけれど、その薄皮一枚の下にこれだけの時限爆弾を抱えていた存在だったのだと思うと、背筋がぞっとする。気づけなかったものはもっとあるだろうし、誤解しているものもあるかもしれないが。

舞台装置の使い方も面白かった。普段登場人物を登場させたり消したりするために使っている「奈落」は、オオアマの作ったルールで敗者の人たち(=鬼)が乗せられる船と化す。七福神の宝船を思い出した。あれも「人ではない者たち」の集まりだ。どこまでもそうやって、誰かを区別することで安全側にいる人がいて、その人たちの"長い時間に引き殺されて歴史(轢死)"になる。ずっと誰かに対する皮肉を述べている。

ここまで書いてとことんよく出来た演劇だな、と思った。しかし”演劇”。歌舞伎座で歌舞伎として上演する意味は?歌舞伎って何だろう。七五調を入れれば、毛振りをすれば、仕草を真似れば、極論歌舞伎役者がやればそれは歌舞伎なのだろうか?

一方で、例えば九代目團十郎をはじめとした明治初期の人物たちが世に出してきた歌舞伎も、時間という波を乗りこなしてこられたから今古典のような顔をしているだけで、当時はきっとそうではなかったのだろうとも思う。だから私たちは今、数十年後にあの時が新しい古典の始まりだったと思うような作品を目撃しているのかもしれない。誰もその結末をまだ知らない。

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