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今週の、いちばん。第22回/「物語」でしか、救われない人がいる。(早見和真『イノセント・デイズ』という名のお守り)

人生には、多分、一生忘れられないだろう言葉がいくつかある。
その多くは、文章にするだけでもつらい言葉だけど、あえて書く。
「私はべつに、あなたなんか生みたくなかったのよ!」
僕が中学か高校のころ、口論をしていた母の口をついた言葉だ。

僕は早くから父がいない家庭で育った。
両親が別れて、母に引き取られた僕は、本来なら女手一つで育てられていることを感謝すべきだけど、実際はそうはいかなかった。
母子家庭で育つことのマイナス面にばかり目がいき、中学生の途中から母とは喧嘩ばかりしていた。
そんな中で、「あなたなんか生みたくなかった」という言葉を聞いた。別れた父が望んだから、生んだだけだと。

今でもこの言葉を書くと、嫌な汗をかく。
素直に考えれば、人は誰だって、誰かから必要とされたいはず。
子どもにとって、親から必要とされないと思う(思い込む)のは、かなり酷な話だ。

   ◆

小説家、早見和真の新作『イノセント・デイズ』を読み進めるうちに、僕は、あのころの僕を思い出していた。
これは、ある「必要とされたかった女」の一生を、丹念に描く物語だ。

「幸せになってほしい」と17歳の母親に名づけられた田中幸乃(ゆきの)。
だが、彼女の一生は、アクシデントが重なり、どんどんと幸せから遠ざかっていく。
小学校のときに母が事故で亡くなり、ドヤ街のスナックで祖母に育てられ、中学時代にある事件を起こし、施設暮らしを経て、粗暴な恋人と暮らし始めるが、最後にはその男からも別れを告げられる。
誰かに必要とされたと思えば、裏切られ、また誰かに必要とされたと思うことの繰り返し。
そして彼女は、ある最大の「罪」を犯し、死刑判決を受け、控訴もせず、確定死刑囚となる。

彼女はなぜその「罪」を犯したのか?
田中幸乃が来た道をまだ知らない読者は、軽率なマスコミのように、あるいは人の生き死にを愉しむ裁判傍聴マニアのように、好奇心混じりで適当な想像を始めることだろう。
けれど、300ページをゆうに超える本書を読み終えたとき、人は自分を恥じるはずだ。
もしも自分が田中幸乃だったら、この「罪」を犯さず、生を続けられただろうかと。

   ◆

今、僕は自分がかつては手にも取らなかった「自己啓発書」をよく作っている。
他の人がどう思っているかは知らないが、僕はその仕事に誇りを持っている。
「自己啓発書」で救われる人、変われる人はいる。

けれど、世の中には「物語」でしか救われない人も、たしかにいる。
より正確には、「物語」でしか救われない時期がある。
あのころの僕は、主にミステリーだったと思うけど、救いのない話をよく読んでいた。
愛する者と別れたり、やむを得ず犯罪に手を染めたり、悲劇的な結末に進むしかない登場人物に、同情と共感を覚えた。
彼らのつらさの、寂しさの、痛みの、ほんの何十、何百分の一かだけど、わかると思った。

今の僕は昔の僕ほどこの世を恨んでいないけど、それでも田中幸乃のことが痛いほどわかる。
自分が必要とされていないと思う人間が欲するのは、「すでに必要とされている」著者の書いた、ありがたいお言葉なんかじゃない。
同じく必要とされていない者の、それでもひたむきに、最後まで人生を生き切るさまだ。

『イノセント・デイズ』はある種の人たちにとって、どんなお守りよりも、心の痛みを和らげてくれる。
デビュー作から、いや、それより前から見守っていた著者の、間違いなく最高傑作である。


今週の、いちばん涙を流した瞬間。それは、9月4日、神楽坂の自宅で『イノセント・デイズ』を読了した瞬間です。

*「今週の、いちばん。」は、その1週間で僕がいちばん、心が動かされたことをふりかえる連載です(下の「このマガジンに含まれています」のリンクから全部の記事が読めます)

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