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スタジアム(ランダムワード小説)

まだがらんとしたスタジアムの客席を見上げて、僕はひとり肩をすぼめた。今日も難なく入れた。このままいつものように、誰にも咎められることなく、定位置に立ち、試合開始を迎えるだろう。
やがてサポーターたちのチャントが聞こえ始め、スタジアムDJの張り上げる声に合わせて、スタジアムの熱気が高まっていく。同じ色のユニフォームを着た様々な属性の人たち(ほんとうに様々だ、いつも感心する)が、手拍子をしたり、声を合わせたり、写真を撮ったり、唐揚げを頬張ったり、思い思いに試合前の時間を過ごす。
選手たちのウォーミングアップが終わり、フラッグシンフォニーが終わり、選手入場を経て、試合が始まる。ここからが僕の仕事だ。
僕はいわゆる、野良ボールボーイだ。あるいは、プロボールボーイといってもいい。毎試合、市内の高校のサッカー部がやっているボランティアのボールボーイに混じって、僕はボールボーイを務めている。ライン際に身を潜めて、コートからボールが出たら、即座にボールを投げ入れる。チームの許可もなく、こっそりと、しかし堅実に。
ボールボーイは気楽な仕事ではない。子どもたちが気楽にやっていると思われがちだが、少なくとも僕はとても自覚的にプロとして、それを務めている。即座に選手にボールを渡す。そのスピードが、秒が、試合の行方を左右することもある。
アウェイチームに有利な場面ではモタモタする、というのも重要な立ち回りだ。それにはとても慎重な、思慮深い演技が求められる。これがやけに演技じみていると、僕の存在からして疑われる。スムーズに自然に。あまり時間をかけてしまうと、疑われる。ちょうどアウェイチームの選手やサポーターがイライラし始めるくらいのモタモタさ加減、絶妙な塩梅。これが僕がプロたる所以だ。技術、センス、ノウハウ。
それを繰り出すには、試合を読まないといけない。攻防の展開とサポーターの感情と期待される役割を、しっかりと逐一感じ取ることが肝要だ。
そして、今日も試合を左に右に、ホームチームには秒の分だけ有利に、アウェイチームには秒の分だけ不利に。コートからボールが出るのを待つ。ひっそりと、姿を潜めて。
ゴールキーパーが高く蹴り上げたボールが、風に乗って距離を伸ばす。ターゲットの選手の頭上を超え、ディフェンダーの頭上も超えた。僕は脇に抱えたボールを即座に準備。
僕はボールボーイ。このスタジアムきっての。

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