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ゼッケン67 ラナトゥンゲ・カルナナンダ

ラナトゥンゲ・カルナナンダという名前の長距離選手を知っているだろうか。
東京五輪(1964年)の陸上1万メートルに出場したセイロン(現スリランカ)の選手だ。
カルナナンダという難しい名前よりも「ゼッケン67」といったら思い出す人もあるかもしれない。
昭和49年~51年にかけて光村図書から出ていた、小学校4年生の国語の教科書に「ゼッケン67」は登場する。
小学生が初めて触れる報道文という趣旨だったのだろう、新聞記事の抜粋かもしくは新聞記事風に書かれた文章だった。
その内容というのはこうだ。

 1964年、東京オリンピックの陸上1万メートルレース。

 トップを争う選手たちが、次々とゴールしていく。

 レースは終わった。

 しかし、「ゼッケン67」を付けたランナーは、まだ、走るのをやめない。

 「周回遅れか」「がんばれよ」…やじを含んだ声が、観客席からあがる。

 それでもランナーは走り続ける。

 だれもいないトラックを、1周、2周、さらに3周……。

 彼のゴールは、まだ終わっていなかったのだ。

 勝利のためでも記録のためでもなく、

 自分自身のゴールに向けて走るこのセイロンのランナーに、

 やがて観衆は大きな声援を送り始めるのだった。

僕がこの教科書を使った当時、既にセイロンはスリランカに名前が変わっていた(改称は1972年)が、当時の首都が、NHKで放送されていた米国の刑事ドラマの主人公と同じコロンボであり、カルナナンダという言いにくい選手の名前はしっかりと記憶に刻まれた。
が、我々の年代は、東京五輪を生で体験したわけではない。教科書の文章自体は淡々としながらも感動を誘う文章なのだが、イメージが湧きにくかった。

我が家には東京五輪の協賛企業だったカルピスが、大会後に出した東京五輪の実況をまとめたレコードや、東京五輪を特集したアサヒグラフがあったが、カルナナンダの名前はその中にはなかった。

2014年10月15日 東京五輪50周年の祝賀会をJOCが開いたことを伝える新聞記事に、懐かしいカルナナンダの名前を見つけた。
セイロン(当時)から東京五輪のレスリングに出場し、JOCに招待され来日したフェルナンド氏が50年前の思い出を語っている。
カルナナンダとフェルナンド氏は、五輪期間中に東京都北区の小学校の運動会に招かれ、東京の小学生と交流をした。
そしてカルナナンダは、1974年に水難事故で38歳の若さで亡くなった。

つまり、僕が教科書でカルナナンダを読んだ直後にもう彼は、この世にいなかったということになる。

●ラナトゥンゲ・カルナナンダ 1964年東京五輪出場
陸上男子5000m
予選3組 12位 16分22秒2
陸上男子10000m 29位(完走29人)34分21秒2

このレースは38人が参加するが、9人が途中棄権した過酷なレースだった。
金メダルは米国原住民出身(インディアン)のビリー・ミルズ。
まったく無名のミルズの優勝は五輪史上に残る大番狂わせと言われた。
また、マラソンで銅メダルを獲る円谷幸吉が6位入賞している。
当時は、10000mとマラソンの両方に出場する選手もいた。

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