星のカービィのグロテスクさ。

星のカービィ スターアライズが3月16日に発売される予定です。久々に僕も気になっている、任天堂ゲーム関連のニュースです。

先記事から続く、来住英俊「キリスト教は役に立つか」を読んで、その星のカービィの世界観を明瞭に解説できる部分がありました。以下引用になります。

177P 私はある時期、必要があって、いくつかのライトノベルを読みました。「涼宮ハルヒ」シリーズとか、「イリヤの空、UFOの夏」とか。
少し驚いたんですが、ライトノベルの世界観は暗いものだと感じました。自分たちが暮らしている小さな世界(例えば学校)があり、その外には自分たちが知らない世界がある。そして、その広い世界は邪悪さを帯びたものがある。そういう世界観です。そして、時に外側にある邪悪な世界の生き物が、私たちの世界に侵入してくる。
私たちの小さな世界に時々裂け目が開いて、そこから恐ろしいものが入り込んでくる。
177~178P 世界観に対する恐れの一つは、前項で述べたように「人が自分をどう思うかわからない」ことですが、それが嵩(こう)じると、世界全体がいつ自分に向かって牙をむくかわからない恐ろしいものとして感じられることがあります。
179P このような作品が若い人のカルチャーの中に浸透していることを考えるとき、若い人に対して同情を感じます。
179P このような漠然とした恐れは、社会学的に実証できるようなものによって引き起こされているのではありません。世の中でささやき続けられる、私たちが子供のころから聞かされてきた無数の言葉によって織りなされています。

星のカービィの世界観は平和でポップで可愛げがあります。これは私たちの小さな世界のように感じられます。そこに邪悪なものが迫ってくる。それは唐突であり、巨大です。この邪悪なものたちは、皆グロテスクな様相を放っています。

これは引用のように、この世界をまだうまく捉えきれていない若者が持つ、漠然とした恐れをあらわしているのかもしれません。

星のカービィをプレイすると、この陰鬱とした感覚が蘇ります。あるいは喚起され、攪乱され、この感覚が一時的に増幅します。ゲームの世界観に浸れるのです。これが星のカービィの魅力だと思います。

ある程度を歳を重ねていくと要領を得てきて、この漠然とした恐れを感覚的に理解していきます。それでも、また恐れて怖くなったりしますが、もうその頃には漠然としたものではなくなっています。実体を掴めます。

来住英俊氏は、これらの漠然とした恐れに立ち向かうことに有用なのが、キリスト教の福音だといいます。

179P この世界は「大丈夫な場所」であり、神が我々と共に歩んでくれるという世界観を示してくれます。荒れ狂うガラリヤ湖の真ん中で、イエスに向かって、「助けてください、私は怖いんです!」と呼びかける。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というイエスの言葉を聞く。「わたしだ」は英語では、I AMです。「わたしが(共に)いる」とも訳せます。

かなり強引かもしれませんが星のカービィにおいて、漠然とした恐れ(グロテスクな様相を放つものたち)に対抗するカービィが、イエスのように見えます。カービィがいることによって、引用のようにこの世界が大丈夫な場所だと感じられるのです。

もちろんカービィはイエスではありませんが、そのイエスの主張する要素を、少しだけは含有しているのかもしれません。



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takoya

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