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そんなことより、寄席行こうぜ!

ルミネめっちゃ楽しかったです。生徒を引率しないお笑いライブってあんなに楽しいんですね・・・。

嵐のような1週間を乗り越え、今、EXITさんにとって何が一番うれしくて素敵なことだろう、と考えたら、それは「最強の漫才師になること」なんじゃないかと思って、そのためにはネタを何回も舞台にかけて磨くことが必要で、そのためには劇場に人がたくさん集まることが大切で、では我々に必要なことはまず劇場に足を運ぶことだなと思いました。








兼近さんは、いろんな人がいるよ、気が付いて、と発信なさっています。

我々教員が言えないことを、兼近さんが言ってくれるのが、有難いし申し訳ない気持ちになるし、どうして君はそんなにも、という思いがこみ上げます。

教室は、学校は、多種多様な家庭の集まりで成り立っていて、でも、表面上は「みんなおんなじ」という不思議な膜で覆われています。みんな同じとはこの場合、みんな同じ授業を受けて、みんな同じ給食を食べて、みんな同じジャージを着て行事を盛り上げる、「一致団結」とか「仲間」っていうスローガンが金言としてもてはやされる環境のことです。

でも本当は、そりゃもういろんなご家庭があるのです。いろんなお子さんがいるのです。保護者や家庭環境が荒れた状態で、さらに学習や集団行動という負荷をかけられ、もしそのお子さんに偏りや歪みがあったら?それでも明るく健気にまっすぐに真面目に成長する「べき」なのでしょうか。そこまで学校教育って万能なのでしょうか。

授業中、突然立ち歩いて踊り始めた生徒は、熱で潤んだ目をして「今日薬飲んでこなかった」と小さな声でつぶやいた。今朝、彼は母親とケンカをしたのだ。離婚して離れて暮らす母親の家に久しぶりに泊って、たっぷり愛情を受け取って満たされたのに、朝寝坊してぐずぐずしてたら注意されて、そこで衝動性が爆発してケンカになってしまった。薬を飲まないと彼はいきなり立ち歩いてしまうし、独り言や鼻歌が止まらない。知らない生徒たちは、「なんであいつ立って歩いてんだよ」「なんで授業中に歌とか歌うんだよ」「真面目にやれよ」って思うし、自分たちより少し劣った奴だと無意識に見下している。



どうすれば良いのか。服薬を続けていることや母親を欲していることを彼は他人に知られたくないのです。「みんなと同じ」になりたいのです。「僕にはこういう事情があるから察してください」なんて言いたくないのです。

我々も、言わないし言えません。ご家庭の事情や個人の特性など絶対言えない。それでも、少しでも生徒の視野が広がるようにと、お互いの違いを許容できるようにと、声をかけ続けていくしかない。本来は、社会には多様な人々が存在していて、お互いちょっとずつ気を使いながら暮らしていくんだよ、ということがごく当たり前になるように、幼い頃からそういった環境にしていかなければならないんですよね。







幼い頃と現在を比べて、変わる人もいれば変わらない人もいます。私は兼近さんってめっちゃすごいと思うのは、きちんと良い方向に変わろうとしているな、ということがすごく伝わることです。この数年間、初めて拝見した冬休みのYouTubeからいろいろな兼近さんを見てきましたが、愚直に不器用に誠実に進んでいらっしゃいます。明るく芸人らしくボケながら、驚くほどストレートに体調や精神状態が表情に表れる。それを本人はあまり気付いていなくて、自分は器用にやれていると思っているのが悲しくも愛おしい。










兼近さんのYouTubeでの生配信を拝見しながら、今できることは何かと考えたら、それはもう目の前のたくさんの「石山君」に伝え続けるしかないな、と思いました。同時に、「石山君のおうち」と、繋がりを切らしてはいけない、とも思いました。

かつて、家庭訪問しても会えなかった「石山君」。私はすごすごと学校に戻ってしまった。何でもいいから、お母さんと話をしたり、おうちの様子をきいたりすればよかった。そこに何かのヒントがあり、行政や福祉に繋がっていったかもしれないのだから。

兼近さんを始めて知った時、「むき出し」を読んだ時、勇気が湧いてきました。
大丈夫、目の前のこの子はいつか兼近さんになる可能性があるんだ、と思ったら、希望が見えたのです。今は荒んでひどいことを言うけれど、誰かに出会って何かを見て素敵な言葉に触れて、なんかいい方向へ変わることもあるんだろうな、と。

それは、学校を卒業をしたずっとずっと後のことかもしれないし、その過程でたくさんの過ちや失敗を重ね傷つくことも傷つけることもあると思います。でも、いつかそういう日が来ると思って行動していきたいのです。







そんなことより、寄席、行こうぜ!
(イギリスで餅をつく決意のイントネーションで)