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数にはまだまだ面白いことがある:シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

※この記事は2022年3月7日にstand.fmで放送した内容を文字に起こしたものだ。


今回も数学史の解説していこう。
理論とか定理がよく分からなくても、どんな経緯でそれらが発見、完成されていったのか、その歴史だけでも知ると、数学への理解はもちろん、他の科学とのつながりもよく理解できる。実際、数学史は、科学の発展と密接な関係にある。
その世界観を少しでも知ってもらうためにも、この解説が役にたれば嬉しい。

今回紹介するのは、18〜19世紀にかけて活躍したインドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンという人物だ。

アジア出身で数学に大きな功績を残したことや、逸話が面白いことでも有名な数学者なので知っている人も多いんじゃないだろうか?

ラマヌジャンは特に数論で大きな功績を残していて、彼の影響で発展した分野がいくつもある。
例えば、πの近似値を求めるための新しい手法がもたらされたのは彼の功績によるものだ。

ざっくりどんな手法か2つほど説明すると、1つは、ある無限級数の項を1個だけ用いることで円周率が7桁まで正しい近似値を出す方法。級数というのは数列の項の無限個の和のことだ。
もう1つは、「不尽数」と呼ばれる、累乗根を求める演算の時だけ生じる無理数を含んだ数式を使って、円周率を9桁まで近似する方法だ。

これらの手法は、ラマヌジャンが1914年にヨーロッパの数学誌に発表した論文で紹介されて、楕円関数やモジュラー関数と呼ばれる、複素解析の分野でよく使われる関数についても新しい見通しをもたらした。
今日コンピュータの研究する数学者は、πの近似値を計算するとき、ラマヌジャンによるこれらの手法をいつくか使っている。

そんな現代のコンピュータ研究にも応用されているラマヌジャンの功績だが、彼の生い立ちから数学者として活躍するまでの過程もなかなか面白いのでよければ聞いてほしい。

ラマヌジャンは、1887年インド南部にあるエロードという町で生まれる。父は織物商の事務員として働いていて、20ルピーというささやかな収入のもとで暮らしていた。ラマヌジャンという名前は、「ラーマの弟」という意味で、ラーマとは、インドの叙事詩である「ラーマーヤナ」に出てくるインドの男のお手本となる人物のことだ。
一家は熱心なヒンドゥー教徒ということもあり、厳格な菜食主義を貫いていて、ヒンドゥー教の神様への祈りもよく行っていたそうだ。

ラマヌジャンは3歳になるまで話さなかったそうだが、小学校に通う頃にはあらゆる科目で優秀な成績を取っていて、9歳の時に行った標準学力試験では通っていた地域の中で最高点を取っていた。

高校に上がると、数学の才能も明らかになっていく。先生が数学の授業で、どんな数も1とそれ自身とで割り切れるという割り算の基本的な性質について教えて、3つの果物を3人で分割しても、1000個の果物を1000人で分割しても、一人が受け取る果物は1個ずつだという説明をした。
そのときラマヌジャンはこう質問したそうだ。

「0を0で割っても1なんですか?果物がなくて、誰もいなかったら、やはりそれぞれ一個ずつもらえるんですか?」

一見意地悪な質問にも思えるが、これはすごく重要な視点だ。
どんな数でもということなら当然0も含まれていると考えるべきだ。そうなると、0を0で割るという計算についても考えなければらならない。以前の放送でも話したのだが、0という数字は、存在しないとか、原点に帰るといった意味合いが含まれている。
それを他の数字と一緒に考えていいのか。
考えていいのだとしたら、0を0で割るという計算の結果をどう説明するのか。これは厳密な定義を求める数学の本質ともいえる疑問だ。もちろん、当時の青年ラマヌジャンがそこまで考えていたのかは分からないが、この視点が重要であることは間違いない。ラマヌジャンはそうした、数学に人一倍探究心を持っている人物だったのだ。

そこから時が経った1913年、20代半ばを迎えていたラマヌジャンは、自分のノートから10ページ分の公式を添えた手紙を、ブリトゥンのケンブリッジ大学にいた数学者ゴドフリー・ハーディという人物に送る。
なぜここでブリトゥンが出てくるのかというと、ラマヌジャンの生きた19世紀後半から20世紀の初頭は、ちょうどブリトゥンがインドを植民地として統治していた時代で、東インド会社による統治など、ブリトゥンとの交流は盛んに行われていたからだ。現在のインドで英語を話す人の割合が多いのも、ブリトゥンによる植民地時代の影響を受けているからだとされる。

ちなみに20世紀に入ると、インド国内でブリトゥン対する独立運動が活発になっていくのだが、その主導的立場にいたのが、非暴力・不服従のフレーズで有名なあのガンディーだ。

そんな事情もあって、ハーディはラマヌジャンから手紙を受け取ると、一定の稚拙さはあるものの、ラマヌジャンの数学の才能を窺わせるような、深みのあるすっきりした公式がたくさんあることが分かった。ハーディはこの手紙に感心し、ラマヌジャンに返事を書いて、ブリトゥンへ来て一緒に研究しないか?と誘ったという。
ラマヌジャンはハーディの誘いをとても喜んだそうだが、一つだけ障害があった。それは、彼の属するヒンドゥー教の階級においては、外国へ出かければ不浄とみられ、追放されてしまうということだ。つまり、もはや家族や友人と共にいることは許されなくなる。

ラマヌジャンはそれで悩みあぐねていたが、ハーディは彼の国の文化を理解したうえで支援したと思い立ち、当時のインドの大学当局を促して、ラマヌジャンを特別研究員としてその大学に採用させた後、大学側が彼に2年分の渡航費を出して自分の所属するケンブリッジ大学で研究できるよう取り計らったという。ラマヌジャンはその支援の甲斐あって、ケンブリッジ大学で研究するべくロンドンに出向くことができたのだ。彼はその後、自分を支援してくれたハーディと、生涯を通じた研究仲間になっていき、彼と共同で発表した研究成果が大きな功績につながっていく。

ということで、ラマヌジャンの生い立ちをざっくり解説してみたが、彼が数学者として活躍するキッカケとなったのは、ハーディとの出会い。それが皮肉なことに、ブリトゥンがインドを植民地支配していたことによる影響だったということだ。
ただ、やっぱり面白いのは、二人の出会いのキッカケがどんな影響によるものであれ、数学というのは、人種とか生まれた環境とか経済状況に関係なく、誰もが楽しめて、そして成果を残せる学問であるということだ。それをラマヌジャンの生涯を知って改めて感じた。

数学にもこうした歴史があると分かると、今まで見てきた理論や定理、数学での考え方にも親しんでもらえると思う。ラマヌジャンの功績は他にもたくさんあるので、興味があったら調べてみてほしい。

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