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存在しないものが当たり前に目の前にあるってことを知らないと妙な状況が続いてしまう

なにをそんなごく当たり前のことをもっともらしく語ってるんだっていう類の存在しない物事の存在と対処法についてだ。

見えるものしか信じられないとか言う人は、見えてるものしか見えてない。
そこにない物事がある。なにかがない。存在していない。
存在がないこともあることとおなじように目の前にある。

なんで食器の山が片付かないのか?食事のあと食べた各自が皿を洗う。で気がつくといつもいつもカゴの中に皿が山積みになっている。永遠に乾かない下の方にあるほとんど使われることのない小皿の数々。

そこに不合理な状況があることを感じられたなら状況を改善できる可能性がある。

本来どうあるべきなのか?からこの状況を見るとそこに存在していない何かが見えてくる。

それはカゴの皿を棚にしまうというステップであり、乾いた皿を棚にしまうことに責任を持つ人。

自分か誰かにこの役割を与え実行させることでこの状況は消えて無くなる。

円周率について教えるとき、円周率が3.14なのはいいんだけどその数値だけ強調しがち。3,14って半端な数だけ覚えていてもその意味とか価値とかどう役に立てられるのか生活の上で仕事の上でどう自分の人生に関わってくることなのか考えることができないとその半端な数だけ知っていても意味がない。教科書にはなぜそれが3.14なのか書いてはあるんだろうがほとんど伝わってない。でただこの数字だけ覚えて計算させられ問題を解かされる。円周の長さやら円の面積を計算して求めたりするが、その出した答えは、数が合ってるか間違ってるかでしかない。あたりまえだが。

直径と円周率がわかっていて円周を求めなさいって、そりゃ求められるだろうけどその必要性や価値がわからないまま。自分の生活、仕事、人生に円周率がどう関わってくるのかこれでは理解しないまま3.14って数と計算方法だけ訳も分からず教え込まれ記憶にインプットされる。

円周率を教える前に、まず円周の長さを知ることがどれかけ重要だったり価値があることなのかを生徒一人一人が実感するぐらいのところまで伝える。

それができて始めて3.14という数字に意味を持たせられる。

そういうものだから、試験に出るから覚えなさい。なんでこれを勉強するのかなどという根本的な疑問に入り込んではいけないとかいう教師がいた。それで周囲の現実とリンクできないままただデータを強制的に覚えさせる。そして、身の回りのあれこれと関連付けられることのなく、現実の世界での使い方が分からないままデータをひたすら詰め込んでいくことが「勉強」ということになる。その結果そもそもデータを使うということがなんなのかを知らないまま、勉強したデータを使うという発想すらもてない人たちが量産されてきた。

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