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「正解主義」なら結論を人任せにして自分で責任もたずにすむ。最終的に結論の正しさを保障するのは自分の観察以外にはないことはいずれどこかでわかってほしい

「正解主義」物事には正しい正解が必ずあるという考え方。というかそれは固定観念。

「学校教育」では問題には必ず正解があって、その一つの正解以外は認められなかった。

それの何が問題なのか。現実の世の中で起きる問題には正解があらかじめ用意されているわけではない。「正解主義」に染まると学校を出てからもその一つの正解をいつまでも求めてしまう。

ではそれがどうして問題になるのか?
以下の2つについて前に書いた。

1.なんとか主義はすべて固定観念である。
その固定観念でうまく行く場合もあるが、いつでもそれで対処できるとは限らない。答えが一つ用意されている問題もあるし、答えを自分で探さない限りどこにもなくて、見つけたとしてもそれが正しいかどうか、教科書や先生が保障してくれるわけではない問題もある。

2.「正解主義」だと合ってるか間違ってるかの2択しかない。白か黒か。
白か黒かはっきりすることもあるがそれはごく一部の場合で、大部分はほぼ白とかより白いとか、濃いグレーとか。白から黒に移り変わるグレーゾーンの中での比較検討ができるかどうか。
どっちが正しいか?ではなく、どっちがより正しいのかって判断できるとより現実に沿った形での解決策を考え出すことができる。正しいか間違っているかは程度問題である。

あと最後にもう一つ。
3.正しさの根拠を自分で持つことができない。それが正しいという保証を外部に求める。

これで合ってますか?大丈夫ですか?っていちいち聞いてくる。
まだ練習し始めなどで慣れないうちは聞いてくるのは構わないが、自分でそれでいいのかどうなのか確かめようとせずに頼ってしまう癖がついている場合がある。

そうなるといつまでたっても自分で考えたことについて自分で責任を持てない。持たない。持つ必要性に気がつくこともない。

導き出した答えが合っているのかどうかは、先生が合っていると言うから、教科書に書いてあるから、偉い人がそう言うから。

答えの正しさの根拠は常に外部にあることになる。自分でそれが正しいのかどうなのか責任を持つことができない。

教科書に書いてあるからと言って絶対に正しいわけでもないし、偉い人がそう言っているという理由で何かが正しい訳ではない。

何かを学んで実践する。そしてその結果を引き受けるのは自分だ。それが正しいのかどうかどの程度正しいのかを最終的に判断するのは自分だ。

かといって、何かについて充分に知っているわけでもないのに、知っているつもりでいられてもうまくいかない。

本当はよく分かってないのに答えだけ出して、たまたま合ってる。なんでそれが合ってるのかあまりよく分かってないのに、分かったつもりになれる。そうなるとそれ以上学ぶ必要性がなくなる。

自分が何をどこまで理解していて、何を分かっていないのかを把握している。その上で、それがどの程度正しいのかを自分で判断できる。

そうできるように導いていくことがあるべき教育の姿ではないか。

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