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サッカー数字コラム「79」翼くんたちはボランチになった

サッカーについて、数字から連想した内容のコラム書きます。
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日本サッカーでも有数の当たり年、「黄金世代」と言われる1979年度生まれの選手たちは『キャプテン翼』連載ど真ん中の世代である。

背番号10とキャプテンマークを身につけ、トップ下で躍動した少年たちは、この世代に多い。「背番号10・キャプテンマーク・トップ下」の三拍子が揃わなくとも、どれかに当てはまっている。黄金世代たちの多くは、昔からその地域で翼くんのような存在だったのだろう。
ちょうどその頃、マラドーナ、プラティニ、そして彼らののちの指揮官ジーコが背番号10のトップ下だった。

千葉の名門・八千代高校の10番、羽生直剛。その八千代のエースを高校選手権であっさり退けた帝京高校の中盤の王様は中田浩二。その帝京を破り、全国制覇した福岡東の10番に本山雅志。高校時代に「七色のパスを持つ」と称され「東北のマラドーナ(今なら誰?)」と呼ばれた小笠原満男も、十代から活躍した早熟のファンタジスタだった。

そんな彼らの中で常に先頭に立っていた3人のうち2人、高原直泰も清水東高校時代は背番号10(ポジションはCF)、稲本潤一もジュニアユースでボランチにコンバートされるまでの間は、ガンバ大阪・10番のユニフォームを背負う攻撃的MFだった。

そして、その頂点に立っていたのが不世出の天才・小野伸二。翼くんの生誕地・静岡で、実写版の大空翼が現れたのだ。その存在感は、チームメイトに大きく影響を与えた。
「左足の怪物」「雪の王子」と呼ばれた中田浩は、伸二がいるからポジションはどこでもいいと言い最終的にはボランチとセンターバックを掛け持ちした。
のちの日本代表・橋本英郎ら関西中のサッカー少年を打ちのめした稲本が中学から黒子のボランチになったことで、花形を担う小野との共存が図れたという背景もあったらしい。
小笠原は、初めて会った小野のリフティングを見て、15歳にして「コイツには敵わない」と思ったらしい。

数多くの「俺、翼くんじゃね?」と思い、実際に数年ずれて生まれていたらそのままスター街道まっしぐらだったかもしれないファンタジスタたちが、小野伸二という数十年に一人のテクニシャンに鼻を折られたということになる。

実際、U-18日本代表の小野伸二のプレーを観ると度肝を抜かれる。繊細なボールタッチ、華麗なパス、意表を突くシュート。背中には10番、キャプテンマークも巻いている。まさにキャプテン翼だ。

そんな中、遠藤保仁のように中学生からボランチで、高校で10番を拒否して背番号7とワンボランチにこだわりを見せた選手は少ない。
そして長年、遠藤は黒子でありテクニシャンながら地味な存在だった。

しかし、2000年代になって数年後、時代は変わった。トップ下が点を取る時代になり、パスの上手い「翼くん」たちがボランチの「レジスタ(イタリア語で演出家、司令塔の意味)」に移行する戦術が取られた。79年生まれの世界ベストイレブンに入る選手で言えば、アンドレア・ピルロが典型例である。80年生まれのシャビは、バルサお得意のインサイドハーフで活躍したが、日本サッカーにインサイドハーフは存在しなかった。

思えば翼くんは点の取れるトップ下だったのだが、日本のファンタジスタたちはハッキリとした司令塔型だった。
そこで思わぬ割りを食ったのが、大天才・小野伸二である。トップ下をやるほど得点力やタメを作るタイプではない。サイドでドリブル突破する柄でもない。ボランチにしては守備が少し不得意。ピッタリと当てはまる適正ポジションが無かった。
それでも、小野は徐々に守備も覚え、ボランチ(レジスタ)として当時強豪だったフェイエノールトでレギュラーを獲得した。そして初年度でUEFAカップ(現・ヨーロッパリーグ)で優勝したのだからやはり凄い。レジスタという、パスのうまいボランチで欧州リーグのレギュラーになった日本人選手は、長い歴史を見ても小野伸二とボローニャ時代の中田英寿(厳密には中田は少し前目のボランチ)だけだ。小野の功績はもっと評価されていい。

小野の他にも、早くから守備的マルチを極めた中田浩、攻守万能の稲本、セリエAの経験から巧くて闘えるようになった小笠原など、皆ボランチに安住の地を求めて定着した。羽生のようなセカンドトップタイプも、現役終盤にはボランチに順応した。ポジションを変えずに済んだのは、高原直泰や播戸竜二らFWだけだ。

そして、初めからボランチであり、レジスタを極めた遠藤保仁は徐々にパサーのスタイルを全面に出し、日本代表に欠かせない存在になった。そして、今現在(2021年10月16日)も同じことが出来る代役は日本代表にいない。

キャプテン翼に憧れた少年たちは、プロ入り後ボランチという、思わぬ道を歩むことになったのだ。そして、その先頭に今いるのは「黒子」だったはずの生粋の司令塔である。

今日の豆知識「79」
実は、1979年度の最初の天才は小野伸二でも高原直泰でもない。毛利真司という体格に恵まれた怪物少年は、小学6年の全日本少年サッカー大会で優勝・得点王・優秀選手の全てを手にしていた。その頃の小野伸二と稲本潤一は、ナショナルトレセンの選考に落ち、人生初の挫折を味わっていた。
しかし、毛利少年は伸び悩み、Jリーガーになることなく地域リーグのカテゴリーで現役生活を終えた。
儚い天才、毛利真司。夢を叶えた天才、小野伸二。大器晩成の才を持っていた遠藤保仁。この世代はドラマチックだ。もし、毛利少年が順調に育っていたら、同世代の「シンジ」は小野でなく、香川真司の登場時に「毛利真司と同じ真司」と紹介されていたかもしれない。

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