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リアリティと必然性の関係

以前書いた以下の記事をラジオで取り上げた際、リアリティと必然性は何が違うのか?という話になりました。

そのときは「ドラえもん」を例に出し、非日常作品における(非日常要素のない)日常を丁寧に描写するとリアリティが生まれるという話をしました。

また、必然性はミステリの文法になぞらえて、納得感に繋がるものだとも言いました。

これらについて、僕の考えは変わっていません。
ただ、説明不足だったなと思うところが多々あるので補足をします。

本題

ひとつご指摘としていただいたのが、リアリティを度外視する作品も多々存在するのではないかということです。
たとえばギャグ系やハーレム系の作品です。
確かに、いわゆるギャグ的な表現やハーレムものにおける主人公だけが異常にモテるという現象にリアリティは皆無です。

ここで言うリアリティとは、現実に起こり得る可能性の度合いという意味で使っています。
なので、「ドラえもん」におけるひみつ道具という要素においてもリアリティはないわけです。
ひみつ道具とハーレム現象の現実に起こり得る可能性はほぼゼロという意味で同じですから。

では、ドラえもんに感じるリアリティはどこからなのか。
それは、僕ら人間が現実社会で生きている「日常らしさ」ではないでしょうか。
僕らがいつも生きている現実でも観測できるような現象や風景を緻密に描写しているから、ドラえもんに親しみを持てるわけです。

つまり、僕らが普段使っているリアリティ(現実性)という言葉には2つの意味合いが含まれていて、
ひとつは「現実に起こり得る可能性の度合い」もうひとつは「日常描写の緻密さ」ではないかという考え方です。

ここを混同してしまったので、ややこしくなってしまった感があります。

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創作において「現実に起こり得る可能性の度合い」という意味でのリアリティを追求するのはあまり得策ではないでしょう。
ドラえもんで言うひみつ道具を物理学などに基づいて説明したり、ハーレムものの主人公にモテる理由をあれこれつけようとする動きがこれに当たります。
これはそういうものだ!という割り切りを前提として、作品を創っていくほうが作者にも読者にも負担が少ないはずです。

一方で、「日常描写の緻密さ」は別軸で追求してもいいのかなと思います。
僕たちの生きる日常らしさに近いという意味でのリアリティを追求することで、作品への没入度が高まるからです。
ドラえもんで言うのび太たちの日常生活のそれっぽさや、ハーレムものの学生らしさに当たります。
誰もが目にしたり体験したことのある出来事や現象および感情の流れを描写することで共感度が高まり、ひいては没入感に繋がります。

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ここまで、リアリティを二分類してきました。
では必然性はというと、これらを内包した、もっと広い概念であるというのが今の僕の考えです。

一言で言うなれば「読者を納得させるための理由付け」でしょうか。

ドラえもんという話に納得感が生まれているのは、ドラえもんは未来からきたロボットであるという設定があるからです。
これがなければあれこれひみつ道具を出されることに読者は納得しないでしょう。

しかしここに「現実に起こり得る可能性の度合い」という意味でのリアリティはないわけです。
なので、納得感に繋がる必然性を演出するために、リアリティは必須ではありません。

ただ、登場人物の心理として自然な動きであるかどうか、という観点は必然性を出すために必要かもしれません。
「え、ここでこの人こんなことするわけないでしょ」と読者に思われてしまうと、没入感が損なわれるからです。
この人間の自然な心理もまた、人によってはリアリティと呼び表す可能性があります。そこに注意ですね。

そして、心理の自然さに日常描写の緻密さが関与している場合もないとは言い切れません。
緻密な日常描写の上で行われる営みだからこそ登場人物の心境の変化に対して納得感が生まれるといったこともあるからです。

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まとめ

今のところの結論としては以下です。

リアリティには2種類あって、それは「現実に起こり得る可能性の度合い」と「日常描写の緻密さ」である。
前者のリアリティは、あまり突き詰める必要がないもの。
後者のリアリティは、没入感に繋がるもの。

そして必然性とは、説得力や納得感に繋がるもの。
それが設定だったり世界観というものにも波及し得る言葉であり、リアリティよりもひとつ上段の概念である。

また理解が進んだら、それぞれについて掘り下げたいと思います。

綾部卓悦の情報

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