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「珍海已講​​『三論玄疏文義要』における法身説法説の受容」の、とても簡単な説明

※この文章は、仏教学の知識が無いけれども、僕の研究に興味を持ってくださった方へ内容を説明する、非常にかみ砕いた説明です。

インドで誕生した大乗仏教は、大きく二つの学派がありました。
1.中観派(「空」思想を研究する派)龍樹
2.唯識派(心の構造を研究する派)無著・世親

1.中観派は鳩摩羅什(344-413)によって中国へ伝わり、吉蔵(549- 623)によって大成されました。以後は三論宗と呼ばれます。
2.唯識派は玄奘(602-664)中国へ伝わり、以後は法相宗と呼ばれます。
※東アジアでも中観、唯識という呼称も並行して通用します。

三論宗は慧灌、智蔵、道慈らによって7世紀日本に伝来し、奈良の元興寺・大安寺を中心に栄えます。

しかし、同じく日本に伝来した法相宗が興福寺を中心に非常に有力となり、三論宗は徐々に押されるようになりました。
また、平安時代になり、最澄(767-822)が天台宗、空海(774-835)が真言宗を伝え、密教が社会で求められるようになると、なおさら三論宗は衰退しました。

ここで、三論宗に転機が訪れます。
聖宝(832-909)が登場し、東大寺東南院と醍醐寺を創建し、以後三論宗の中心となってゆきます。聖宝は三論宗の僧侶ですが、空海の孫弟子にあたり、真言宗の僧侶でもありました。
そのため、彼が創建した東南院と醍醐寺は、三論宗と真言宗の両方を学ぶ(兼学)寺院になりました。

それ以降、三論宗の僧侶は真言宗を兼学することが普通になっていきます。逆に、真言宗の僧侶も熱心に三論宗を学びました。


さて、現在私が研究している珍海(1091-1152)は、この東南院と醍醐寺という二ヶ寺に所属していた三論宗の僧侶です。
平安時代後期の大学者で、三論宗の思想を発展させました。また、多くの著作が残っており、その考えを現在でも知る事ができます。

さて、ここからが研究のテーマになります。
上では、真言宗と三論宗を兼学と書きましたが、実際には様々な問題が起こります。
例えば、両者の意見が異なった場合、どうするのでしょうか?

真言宗の中心的な思想に「法身説法」があります。
これは仏法そのものを身体とする法身仏(大日如来)が、我々衆生に対して法を説く、という事です。

しかし、三論宗では法身は物理的な身体も無く、我々衆生を説法の対象ともしない、と考えられてきました。
実際に、空海に対して同時代の三論宗僧侶・玄叡はそのように批判しています。

これは、珍海や同じく東南院・醍醐寺の僧侶にとって、困った問題になります。
三論宗説を採用すると、真言宗を否定する事に
真言宗説を採用すると、三論宗を否定する事になります。

どちらも、経典に基づいた教えですので、否定できないのです。

こうした場合、両方の説を矛盾なく説明できる、新たな理論を立てる必要があります。
これを「会通(えつう)」と言います。

結論を書きますと珍海は、三論宗の理論を用いて「法身説法」説を証明しようとします。
要するに、三論宗を大成した吉蔵の著作によっても、空海の説を認める事ができる、という形で会通したのです。

その具体的な方法は、論文にまとめようと思っています。完成しましたら、ぜひお読みください。

もちろん、この珍海説は日本三論宗独自の説ですし、新たな展開と言えるものです。それ自体とても興味深いのですが
他にも、派生してさまざまな疑問が湧き起こってきます。

・珍海の時代から、真言宗の教学が発展してゆきます。珍海の様々な学説は真言宗の学僧にも影響を与えているのでしょうか?
・珍海以前に、天台宗でも密教との兼学が進み、教学も発展しています。珍海はそうした説の影響を受けているのでしょうか?
・珍海以後、鎌倉時代や室町時代の三論宗教学はどうなっていったのでしょうか?

広い視野で見ると…
・中観派と密教が重視されるのは、日本だけではありません。チベット仏教でも同様の傾向があります。果たして、両者の類似点や相違点はどうでしょうか?

様々な次の疑問が起こってくる、非常に面白いテーマだと思います!
ぜひ、ご興味を持っていただけると幸いです。

加藤拓雅


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