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いまを生きる

思ったことを書きます。きっと長くなります。それでも書きます。今の自分を知ってほしいから。閉鎖していた自分を変える為に。

「間違えた。自分の進む道は早稲田じゃなかった。」

3月から練習に来て今日までほぼ毎日思った。てか思いたかった。自分を納得させるために。

2月7日に手術をした。代表のスペイン遠征から帰ってきて2日後に。時差ぼけが激しかったのを覚えている。

中学3年の9月にジェフJYとの関東リーグでダイビングヘッドでゴールした。そのとき変な手の付き方をした。痛かった。でもユース昇格ができないって言われたあとの試合だったからムキになってたのかな。試合後もトレーナーに相談しなかったし、親にもいわなかった。それから痛みはあったけど自分で大丈夫って言い聞かせてごまかした。高校でも休む暇はなかったし、休みたくなかったから誰にも言わなかった。でも高校3年の選手権前に足首の定期検診の前日に紅白戦で接触して痛みを感じたから次の日に足首と一緒に手首も診てもらった。レントゲンを撮って診察室に向かうと担当医の他にもう一人手首の専門の先生がいて急に「すぐに手術しないと軟骨や神経を痛めて将来左手が使えなくなる」って言われた。だから選手権終わるまで待ってもらうように頼んだ。選手権が終わって手術しようとしたけれど代表に招集してもらえた。だからもう一度手術を伸ばしてもらって代表活動に参加させてもらった。それで帰ってきて手術をした。すぐ走れるし問題ないと思ってた。でも発症から3年放置してるから深刻だった。腸骨から骨移植したから歩くのがしんどかった。だから走り始めたのは2週間後だった。その影響で立ち上げのキャンプにも行けなかった。山梨でリハビリして東京に来たのは3月の頭だった。


それからリハビリをして5月に復帰のために走ってた。何気なくカーブを曲がった時に「バキッ」ってなって高校2年の時に手術した左足首に痛みを感じた。すぐに診察をしてもらった。そしたら「手術した方が今後痛みが残らない」って言われて正直頭の中真っ白。何にも考えられなかった。だからすぐに主治医だった代表のドクターの人に相談した。いろんな人に相談した。でもみんな同じ答えばかり。誰か1人でも「大丈夫だよ」って意見がほしかっただけなのに。安心したかっただけなのに。でも現実を受け入れるしかなかった。だから6月に手術をした。8月の末に復帰できるって言われたから。リハビリに希望が見えた。「9月から、後期から暴れてやるから見てろよ」って。楽しかったな。あの時期は。でもね世の中そんなに甘くなかった。高校2年の16年12月5日に骨折して、4週間固定しなきゃいけないのに2週間で外して選手権出ようとしたから足は変形してた。17年4月27日に初めての手術して17年8月に復帰する予定だったけど進路もあったしインハイもあったから無理に出場した。その付けが回ってきたのかな。そのせいで今年の8月に復帰できないって言われた。10月って。今だから言えるけどその時スパイクとかトレーニングシューズとかサッカー用品全部段ボールにまとめて封をした。宅急便の宛名に茨城の実家の住所を書いて、宛名は「加藤拓己」にした。学校終わって八王子の病院に片道1時間かけて行って5時間位リハビリして終わるの21時でそこから1時間かけて帰る。帰っても寮飯は1人だし風呂も1人だし。なんかサッカーチームにいる選手じゃないなって思った。やめて地元で働こうと思った。そっちの方が気楽だし、親にも恩返しできると思った。て言うかそうして現実から逃げたかった。でも逃げたい自分と逃げたくない自分がぶつかり合った。結局逃げたくない自分が勝った。いや、勝たせてくれた人がいた。いや、勝手にそう感じた。その人は俺のサッカー人生の中で初めて心から尊敬できた人だった。指導者で尊敬している人は沢山いる。でも違う。なんだか勝手に引きつけられた。本当に初めて「こういう人になりたい」と思った。蓮川雄大(4年=FC東京Y)。俺の人生で一番尊敬できた人。高校時代からスーパープレーヤーでトップ昇格を断って大学に来た。でも大学で膝の怪我を何度も繰り返しプレーを全然できていないことを知った。でも最初にあったときから今日までそんなこと感じたことはなかった。なんかいつも短期離脱した怪我人の様な振る舞いをしている。本人は意識してないかもしれないけれど俺はいつも感じる。だから雄大君の周りはいつも明るい。でも本当は誰よりも辛いのに、誰よりもプレーしなきゃいけないのにチームの為にTM(チームマネージャー)をやってた。リハビリは練習が終わってからか練習前に終わらせている。なんでこんなに自分を追い込めるのだろう。もはや不思議だった。腐りかけてる自分が馬鹿馬鹿しくなった。自分が一番辛い思いをしてると思った。でも違った。もっと辛い人がいる。だから8月に復帰できないって言われた時もやめずに済んだ。なんだか雄大君を見ていると「辛い」なんて言えなかった。俺も負けじと頑張ろうって思えた。今年1年間、これまでの人生で一番苦しい1年間だった。でもそんな俺の心の支えは他の誰でもなく雄大君の存在でした。こんなことを書くと本人に「きもい」とか言われるかもしれません。でもきもくていいから言います。男として惚れてます。だからこれからもよろしくお願いします。

他にも沢山の人に迷惑をかけた。スカウトの玉井さん。ここでは語れないほど支えてもらったし助けてもらった。こんな自分をとってくれた事に感謝しかありません。そしてトレーナーの方々。めんどくさいはずなのに朝7時に来てトレーニングを見てくれたり足を治療してくれてありがとうございました。やる気ないときは叱ってくれて、走りに付き合ってくれて、体重のことまで口うるさく言われました。ありがとうございます。まだまだいます。沢山います。ここには書き切れないほどの人にお世話になりました。

そして俺には欠かせない3人がいます。

浦田幹、羽田拓矢。今年1年苦しかった。毎日励ましてくれたり走ってくれたり、休みには沢山出かけた。毎日毎日怪我の心配をしてくれるからなんだか家族の様だった。でもすごくうれしかった。サッカーをとった俺には何もないと思ってたから。幹には何回も怒られた。むかつくよ。めちゃくちゃ。だって俺はやってるつもりだったから。でも幹には甘く見えたのかな。「おまえはこんなところにいる選手じゃないやろ。はよプロに行け」何回聞いたか分からない。関西弁がまた染みる。傷口に塩を塗ったかの様に痛かった。心に刺さった。でもその言葉がいつも俺を考えさせてくれた。ありがとう。拓矢は比較的オネエだね。でも俺の為に弾幕作ってくれたり俺の事が好きなのはよくわかる。俺が何かするたびに「足は?大丈夫?痛くない?」って聞いてきて改めてオネエを感じる。でもその優しさが俺は大好きだよ。来年からは同部屋になるのかな。楽しみというよりはキツイ。でもそんな2人がいるから俺は強くなれたよ。だからこれからも思い出を刻んでいこう。選手、トレーナー、マネージャーの立場でそれぞれが。誰にも見えない景色を見に行こう。オフの日にはまた遊んで日夜にはご飯に行こう。

監督には本当に感謝している。まだ部員じゃない俺をチームにおいてくれて。誰にもできない経験をさせてもらって、大事な役目を任せてくれて、時には自分が間違った方向に進むとアドバイスをくれた。今まで出会った監督では見たことのないくらい緩い。いい意味で。だから来年必ず部員になって恩返しをします。監督よりも長くプロでプレーしたい。

先日父にこんなことを言われた。

「すべて捨てろ」

何もかも過去の栄光を。正直俺は満足していた。ある程度活躍してある程度有名になった。「ああ俺よく頑張ったわ」って。でも見抜かれてた。アスリートを見てきた父にはすべてお見通しだった。悔しかった。父より素晴らしいプレーヤーに、人間になることが小さい頃からの目標だったから。まだ負けてる。もはや勝てないともおもった。でも父は「俺は拓己のファンだから」って言ってくれた。嬉しさと同時にやる気が出た。それからは狂ったかな。1週間くらい1日平均3時間くらい寝れば充分で、夜中に起きて早朝に走りだしてみんなが起きる前くらいに帰ってくる。でシャワー浴びて6時に寝て、起きたら授業ギリギリとか遅刻するくらいに起きる。アスリートとしても学生としても最悪だと思う。でも俺が満足できればいいかなって思ってたから全然苦しくなかった。さすがに体もきつくなって一旦やめてるけどまたやろうと思う。で父を超してみせる。別に自己満足でいいかなって思ってる。これに関しては。

さっき浦田と羽田を紹介したけど3人って記載して気になってる人いると思うのであと1人紹介します。

きっと知っている人の方が多いかな。沖悠哉。同期で今は鹿島のトップでGKやってる。お互い両親同士が知り合いで俺らもジュニアの時からの付き合い。ゆうたら幼馴染みなんです。沖が鹿島のキーパーで俺がつくばのトップでポジションからしたら真逆。守るのが好きなのと攻めるのが好き。対照的だから2人でいると楽なんだよね。初めてJYのアカデミートレセンで一緒にできて茨城県トレセンでも一緒にプレーした。沖は夏に全国優勝してユースに上がった。俺は上がれなかった。沖は代表に呼ばれて、俺は進路探し。メニコンのキャプテンやってるときに俺は練習。どんどんおいて行かれた。でもいつでも沖は沖だった。鼻伸びてると思った。でも久しぶりにあった時に言われた言葉今でも忘れない。「3年後一緒に入団しよう」って。だから俺は高校行って自分のできることはすべてやった。3年後にまた一緒にプレーしたかったから。でも神様って本当にいるんだね。高校1年の6月に初めて代表に呼ばれた。メンバーには「沖悠哉」の名前があった。嬉しさが倍増した。久しぶりにプレーした。やっぱり良い。ほしいところにピンポイントでパスくれるから。試合中なのに笑ってしまった。それから代表に呼ばれるたびに沖と一緒だった。活動期間中はずっと一緒。それから三年過ごして沖はトップに上がった。俺はプロにいけなかった。また先にいかれた。悔しかった。でもやっぱり沖は変わらない。お金もらいだしても高望みしないし、常に悩んでた。「鹿島には絶対的なGKが2人いるし俺は第4キーパーだから試合にも関われない」とかいろんな相談を受けたし、いろんな相談をした。ずっと昔から2人で切磋琢磨してきたから俺も悔しかった。沖は俺も認めたキーパーだからそんな奴がプロで歯が立たないなんて。でも自分なりに解決しようともがいてる姿に俺つられて惹かれた。今年1年2人で何回会ったかな。2人でディズニーもいった。キモいよね。大きいの2人でディズニーにいるんだから。11月なんて1週間で3回あった。会いすぎて会話がなかった。それくらい仲が良いし、一緒にいて楽だし、よきライバルでもある。だからこれからも2人で励まし合いながら競っていきたい。そして沖が「ファンサービスの時に目を見るのが苦手で恥ずかしい」という悩みを解決してあげたい。だからこれからもよろしく。


ハル(徳島ヴォルティス)もいるね笑笑

そしてこれからについて。

これまで支えてくださったすべての方々。

僕に関わったすべての方々。

ありがとうございました。今年1年間何もできなかったけれどこの経験は無駄にならないと思います。いや、無駄にしません。

今年は沢山溜めました。悔しい気持ち、苦しい気持ち、そしてお腹のお肉。。。それを必ず来年発散します。そして皆様が望む以上の活躍をします。ですので厳しい目で評価してください。

2018年。サッカー界から「加藤拓己」は消えました。

みんなの記憶からも消えかけているでしょう。

だから来年新しい記憶を刻みます。新しい「加藤拓己」を見せます。

必ず世界を驚かせます。いつか今日という日が僕の人生の新たなスタートになったと思える日まで進みます。

明日もまた積み重ねていきましょう。

そして最後に。

僕は大学に来たことを後悔していません。同期、先輩、監督、コーチ、トレーナーなど沢山の人に出会えて支えられました。でもきっと「早稲田大学」でなければ後悔していたと思います。だからこのチームに恩返しできるように頑張ります。

加藤拓己

次は「僕の恩師」について書きます。



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