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2年間の教員生活を振り返って

2023年4月。今年度から、自分は学生に戻るという決断をした。
進学先は神戸大学大学院国際協力研究科。研究科について雑に説明すると、開発途上の社会(成熟社会でない社会)の成長・開発を議論するようなところで、特に自分が所属するゼミは教育を専門に、かつ経済学的な視点から分析する、といった感じ。

決してオシャレな街神戸だからというカッコつけの理由でここの研究科を選んだわけでは無いのだが(ちなみに今はメリケンパークのスタバでこの文章を書いている)、なぜここの研究科なのかという説明はまた別で。今日は、この前の3月まで2年間続けた高校教師という仕事で得た学びを残しておこうと思う。

メリケンパークは "BE KOBE" がある公園

1. 授業をするのはむずい

2年前までは授業と言えば机に座って(たまに興味のない)教師の話をただ聞いていればよかった立場が、教壇に立つ側になって色々と変化した。特に教員一年目は、授業を構成することの難しさや教科に対する理解の浅さがゆえに本当に不甲斐ない授業をしたことが何度もあった。

もちろん悔しかったので、大学学部時代の何倍も数学と向き合って、高校数学の教科書に載っている以上の数学を学びなおした。(学部の授業は引くほどサボっていたことを、この時になって心の底から後悔した)
教員2年目は自分のやりたい授業の型や譲れない価値観のようなものができ、ある程度満足いく形で授業ができた、と自己分析している。

勝手に丸付けてくれるExcel教材を作ってみたりした

がしかし、教壇に立った経験からの大きな気づきとしては、「多様な(本当に多様な!)生徒達全員に数学を伝えるなんてめっちゃむずい」ということ。
もし1年間の授業時数で”たった1人”に数学を伝えるのであれば、ある程度のレベルまで伝達できる自信はある。でも、クラス全体40人となると話は全く別であった。

正直、生徒でいた頃(高校時代も大学時代も)や教育実習の経験では、教えることなんて簡単だと思っていた。「なんで先生はこんなに伝えるのが下手なんだろう」とすら生意気ながら思った事もあった。
でも、こういうのは経験しないと絶対に気づけないものがある。体験として教育現場の大変さや複雑さを知れたのは大きかったと思う。

今後の大学院での研究や自分の深い価値観に通ずることとしては、「多様な生徒が一律のペースで学習を達成する事には限界があるのでは」ということ。

今でも当たり前に行われている近代以降の一斉授業スタイルには、非合理な部分が多く存在すると思う。
これは、先進国である日本の学校現場でも前の夏に訪れたカンボジアの学校現場でも、同様に言えることだと思う。タブレットなどのハード面と個別最適なアプリなどのソフト面の両面が整ってきている現代においても、未だに「多様な生徒が全員同じペースで学習することが最も効率的だ」という教育観や常識に対する疑問は、これからも忘れないようにしたい。

@カンボジアの中学校
多くの国の教育には「一斉授業」という共通点がある。

あと、自分との関わりの中で勉強に対してモチベーションを持ってくれた子が、それでも満足いくほど成績が伸びなかった経験は、絶対に忘れちゃいけない気がしている。個人的にはかなり悔しい想いをした出来事で、自分が思っているほど教育や学習が単純ではないと教えてくれた。

2. 自分の教育観に対する気づき

上で書いたような授業に対する試行錯誤の日々を通して、自分の中で教育に対する考えや価値観を深めることができたように思う。

まず、自分は演者(自分の中で、授業における教師は演者的な役割だと思っている)としての能力は低くて、そこにやりがいや深い価値観を見出せなかったという事。つまり、学校現場の教壇に立っていなくてもいいという事。
お世辞にも自分はユーモアがある人間ではないし、その部分を伸ばそうとも思っていない。だが、人前で話す時には、ある程度の「フリ」と「オチ」みたいなものが必要だし、それを作れないとただ自分のペースで喋っている人になってしまうだけで、多分自分も授業でそうなってる時間は多かった。

自分で選んだ数学教師という仕事だからこそ、できるだけ多くの生徒に数学を伝えたいと思っていたし、全員が数学の成績が上がってほしいと思っていた。でも、その想いが強いが故に(それも空回りしてしまうことも多くあり)、授業中の生徒のつまらなさそうな顔が目に入る度に自分の授業スタイルや教師としてのあり方を考え直した。その作業は、あまり良いものではなくどちらかと言えばきつい時間だったと思う。

誤解なく言っておくと、この2年間の仕事は総じて本当に楽しかった。教師というのはかなり人間関係の仕事で、その距離感がゆえに傷つくこともあったが、それも他者と関わる上で必要なことを学ぶ経験となったし、何より生徒とのお喋りや関わり合いの中で学ばせてもらうことが多かった。

そして2年間を通しての何より大きな気づきは、自分は数学という教科に対する憧れのような感情を持っているということ。
小中高大と教育課程にはそれぞれ特徴が存在するが、自分は特に高校教師、それも高校数学教師という人種が好きだと心から感じた。数学に対する深い理解を持っている先生やICTツールを使いこなす先生、どんな教材も自分の手で作ってしまう先生など、多様でかつ専門性のある方々への尊敬が止まらなかった。(もちろん数学以外でも担当教科への愛が溢れる変態先生は沢山いて最高だった)

おじいちゃん先生が自作した正二十面体キッド。本当に美しい…

そんな方達との職員室での学問的な対話は本当に楽しくて、自分は文化としての数学に精通できることに幸せを見出せることにも気づいた。

話が少しぐちゃぐちゃしてしまったが、結論として、自分は数学が好きだが、それを多様な生徒に伝えることには深い喜びを見出せなかった、という事。
数学が嫌いで受験でも必要ない生徒が(それも16,17歳という自立した人間になっても尚)、強制的に数学の授業を受けないといけない事が今でも腑に落ちていないし、そういう子に数学の面白さを伝える事は、高校のカリキュラムの密度からしてかなり難しい。つまり、授業の進度と生徒への個別対応はトレードオフで、今の教育システム上で「全員がおもろい!」という授業をする事はかなり難易度が高いということ。

結局、勉強とか学習は、その人自信の内側にモチベーションが伴っていなければ本質的では無いし、言い換えると、自発的でない学習は持続しない。理想としては、高校生くらいからはもっと生徒側に主導権を与えて学習させて良いと思うし、そのようなカリキュラムの柔軟性があるべきだと思う。もちろん現場ならではの変化に対する障壁は多いけど、持続しない学習なんて大学以降では役に立たないのだから、生徒の多様なニーズに沿った形に教育は変わっていかないといけないのかな、とも思う。

ここまで長々と書いておいて、結局教員としての2年間は最高だったし、高校生の淡い青春に少しでも関われた事は間違いなく自分にとっての財産だし、出会ったくれた高校生みんな(本当にみんな)がこれからも頑張ってくれたら何よりです。たまに授業でカッコつけたこと言ったりもしたので、俺も頑張ります。


おわり