文字に残す理由

わからない。

ただ、生まれた言葉が自分の言葉だけとして消えて欲しく無い。

僕が綴る言葉は、どこかで既に誰かが言った言葉だと思う。だけど、その言葉はどこにあるのかわかったものじゃない。いろんなところに落ちている言葉は、同じ言葉なのに、たどり着くまでの文脈が人ごとに違っている。それに、言葉に出会った時、何回も出会っている言葉のはずなのに、心に落とし込めるタイミングは1度目じゃなくて、自分にその文脈が出来た時だったりする。

今まで学校で、同級生と足並みを揃えて育ってきた。その中で同じ言葉に出会い、同じ経験をし、だけども様々な価値観が育つ様子を見てきた。改めて思うと、こんな当たり前なことが不思議に感じる。

同じ状況から、違う価値観が生まれていく。まあ実際には価値観は共有されていて、大多数は同じ意見を持っているのかもしれないが。いや、むしろひとつの価値観に集約する場であったはずだ。

だけどそこで1人1人を見てみるとやはり違う。この違いはとても面白い。よく周りを観察してみて欲しい。また、よく話してみて欲しい。

よく繰り返される言葉に、「みんな同じだ」という達観したような言葉がある。僕は時によっては「みんな同じだ」と思うし、だけど見るポイントを変えると「見事にみんな違う」と思う。

「みんな同じ」という言葉が生まれるのはどんな時か。この言葉は不安の解消に役に立つ言葉であって、人の気持ちを落ち着かせたりする。だが他の場面では、足の引っ張り合いの合言葉にもなる。同調圧力になる。

一方で、「みんな違う」はどんなときに感じるか。きっとそれは、人を少し深く知るときだと思う。周りにパーソナルな話が出来る人はいるだろうか。僕にはほぼいない。友達が少ないからこそ、みんな違うと思うのかもしれない。。話したり、分析すると、人間性には一貫性があって、それは誰とも一致しないように感じる。

また、友達の種類のっていうのは、コミュニティーの数に依存すると思っている。「クラスで20人友達がいる」ことと、「各学校に友達が2人ずついる」ということの違いは、どう感じるだろうか。言い換えれば、どちらも同世代の友達と言えて、括ることができる。だが、地域背景や街の様子が違うなど、前提条件という意味での「共通言語」は違う。

もっと広げれば、Twitterでの友達やfacebookでの友達、またオンラインサロンの友達など、これらもSNSで括ることはできるが、きっと「共通言語」は異なるだろう。

まあとりあえず何が言いたいかと言うと、僕的にはコミュニティーの数が価値観の多様性を生むと考えている。

友達が20人いて、それが全員クラスの友達であるか、あるいは3つの学校での合計なのか。小さな例だが、想像してみて欲しい。おそらく、各クラスに1人くらいは、そんな感じで広く交友のある人がいたと思う。

また、クラスに友達があまり居ない人は、時に寂しさを感じることもあるだろう。それはなぜかと言うとおそらく、同じような価値観しかそこにないからだと思う。自分と合う価値観がその場に無ければ、それは当然いづらいだろう。「みんな同じ」なのに自分だけ違うのだから。

ここで落ち込んでしまわないで欲しいと、切に思う。今いる居場所は、居なきゃいけない場所じゃないかもしれない。居なきゃいけないかもしれないが、他の場所に遊びに行ってもいいはずだ。

そんな感覚で、ちょっと他の場を見てみよう。というのがメッセージです。

タイトルが何だったか忘れたが、思いのままにつらつら書いていると、自分の思いが出てくる。実際自分は何がしたいのかってのが、自然と出てくる。何も考えずに文字を起こしてみると、自分が少し分かってくるような気分になる。自分はこの感覚が欲しいんだろうと思った。自分が何を思っているのか知りたい。

ーーーーーー余談ーーーーーー

質問箱piengで、「いしづの言葉に元気をもらった」という匿名のメッセージが送られてきた。いや、こっちが元気もらったわって感じだわ。うれしい。照れるからTwitterで回答はしないけど、言葉を返してくれてありがとう。優しい感情だけ紡ぎたいですね。

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