メッセージを「与える」作品を見た事について

変な話かもだが、ずっと何やら真理を求めて色んなアニメ、小説、映画、岩波文庫と、なんだか遡るようにして見漁っていた。そんな中でなんやかんや行き着くのが神話とか心理学や哲学で、物語の源流だったり人間の真理のようなものに出会う。


そんなこんなで、最近のブームは考えることだった。考える力という能力に対してめちゃくちゃ魅力を感じ、考えたことを言葉を使ってまとめまくるのが趣味になっていた。そうしているうちに、言葉が陳腐であるように感じるようになった。言葉で説明できないものをあえて言葉にして分類することで、人類は発展してきた。だがやはり言葉に出来ないものが先にある。できるならそれを追いながら言葉を付けていきたい。


そんな中で、改めて映画を見るなどすると、そこにはその真理のような(メッセージと言った方がいいかもしれない)ものを提示される。それは大切なことだろう。だが、いくつも見ているうちに分かるが、メッセージ自体はどの作品も同じだ。僕はそこばかり見てしまうので、もういいやと思ってしまう。もう十分だ。


ここで、とある映画を見たので、それに対する評価を自分でした後に、ネットでの評価を見漁ってみた。そこにはかなり色んな評価軸があった。物語の構成、主人公の人柄、音楽、キャスト、メッセージ等について、評価されている。どこに目をつける人がいちばん楽しいだろうか。僕は今日まで、メッセージの部分が一番大切だと思っていた。だが、そんな中であらゆる細かい評価軸を持っている人の感想を見てみると、彼らには実に多くの思いが生まれていると感じた。それぞれ1つ1つの思いは小さくて、取るに足らないように感じることもあるが、それらの思いは確実にその人を楽しませている。一方で僕は作品としてのメッセージしか見ていなかった。本質を探そうとしている面があるのだが、それだと感想が3文くらいで終わる。抽象化してまとめすぎてしまうのだ。作者の意図を考えることしか楽しめない。意図を汲み取れているかは分からないが、とにかく理解しようとすることを楽しむ。ただ、こうなってくると、抽象化によってあらゆる作品が同じに見えてくる。


そう、簡単に考えれば言葉などそんなもんで、まとめ分類するためのものである。それも大衆向けの言葉など特にそうだ。僕は今日映画を見て、自分の見方では楽しめないものが多いことに気づいた。ほどほどに傷ついた。


だから今は、メッセージありきではないものを見ている。「ごっつええ感じ」という番組を見まくっている。これは無条件に面白い。久しぶりに頭を使わないものが見たいと感じた日だった。


しかし改めて考えると、単純にもっと美しいメッセージや言葉を探せばいいのかと思った。文豪の作品にそれは詰まってるのではないか。それを探ってみよう。違う、「メッセージなどただの解釈である」というものが見たい。つまり、メッセージを受け取る作品ではなく、何かを感じる作品に出会いたい。あー、それはきっとアートですわ。


今日は、薄っぺらい作品を見てしまったというだけだ。それが僕に与えてくれるのだと考えていたのが悪かった。それだとその作品が与えるものだけが全てになってしまう。作品から何を得るかはそれぞれだ。だから、僕は作品と対峙して、会話がしたい。

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