万物とのコミュ力を上げる

得意なことってあるだろうか。小さい頃から振り返ってみる。

小学生はなんとなく勉強はこなし、運動はだいぶ出来て、中学ではど真面目誠実文武両道を型にハマるようにこなし、高校は漫然と、そこにあるものをそれなりに頑張り、大学では部活で体と心と頭を鍛えることだけを考え、その活動に依存し寄生した。卒論の時期は忙殺こそ充実と考え、それに寄生することで絵に書いたような思考停止状態だった。

これまでの人生では、乗り越えれば何かあるとかいう精神で、とりあえず終わるまでやってみるのが正しいことだと思っていた。でもいつからか、「楽しいから頑張る」から「耐える」に感覚が移っていることに気がついた。「どれだけ成長するか。」から、「やりきることが大切だ。」という発想に変わっているのだ。自分の残すものの小ささを実感することで、無意識に目的をすり替えているのかと思ったりする。

今まで何度も「続けるという美徳」の元に色んな活動をやりきってきた訳だが、そこに何が残っただろうか。ピアノの「グレード」、習字の「段」、部活での「順位」、、習ってきたからこそ周りよりできることは沢山ある。だけど、だからなんだと言うのか。「自分に自信をつけるため」とか言って色んな成長を求めてきたが、自信があったからといって、何が出来るのだろうか。その「心の保険」とでも言わんばかりの「かつての自分」は、なんの意味があるのか。

実際にこれからやることに対して、「かつての自分」はあまり役に立たないだろう。もちろん、それぞれの場面に共通する「作業」的な面での優位性は確保できるだろうけども。今まで培ってきた「作業の能力」を使い回すことに、僕は充実を覚えない。そりゃあ、培った能力としてそれがもう一度発揮できることが求められることはある。だけど、その「準備してきたもの」を使うことを至上の喜びとは感じられない。

さて、ここからが困りどころであり、大事なところである。「あらかじめ持っている能力を使い回すこと」が面白くない僕は何を求めているかと言うと、おそらく「知らない事について速く学び、開拓する力」だと思う。そこには新しい体験と、困難と、行き詰まりがあることは想像できる。それを早く乗り越える力は、切実に欲しいと思う。書いてるうちに、自分が何を求めているのかを言葉にできたようだ。この方針はどこに向いてもいいと思っている。興味の湧いた方向にいち早く、この気持ちを向かわせたいと思う。

僕の思考では、出発点と終着点はあまり関係なかったりするようですね。

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