「たくみちゃんカップ」の作られ方�?

はじめに告白しなければはじまらない。今から書かれる文章はたくみちゃんによる「第一回 トーナメント審査過程の記録」の言葉に影響を受けて書かれた。

そしてそれがやりたかったことなのだ、と今では思っているのだろうか。

「たくみちゃんカップ」(以下、v)は、現状への不満と危機感から生まれた。
この国=日本における芸術と社会の間の大きな距離、そしてこの国の芸術の側に立つ者の深刻な言語化能力・意欲の貧困ーとから生まれている。

たくみちゃんと組むことになった理由は、たくみちゃんこそがふさわしいと思ったのと、「自分」以外の誰かと共催する必要があると考えたから。
言語は二人以上の人間が使用してはじめて言語としての機能を有すること、そしてたくみちゃんは言語と非言語(身体パフォーマンス)の融合あるいは併置を旗に掲げて「トランスフォーめいそう」という作品行為を行ってきたということ。
それでももとはひとつの同じ行為だったものが、異なる文脈や社会(狭義のコンペや国を含む)に置かれると、評価が一変する。それが経済的対価と連動する場合、文字通りの死活問題となる。

振り返ればその行為の価値を決めるのが他者によって下される評価であるという点において芸術も経済も相違なく、評価の際に使用されるものが数字を含めた言語であることも同様。
であるなら。
であるなら、この構造に対する態度表明が必要ではないのか?いま居る場所を私として定位するために。

ただし、態度表明は二者択一ではないということに留意されたい。イエスかノーだけではない、第3の選択肢のこしらえ、あるいは何らかの抜け道も常にありうるのだ。状況というものは無為に振動を続けるあのプレートである。

だから?今回、我々vs?collective(以下、s)は第3の選択肢に向けた態度表明を試みた。
主体の放棄(詳細は開催ルール参照)がその皮膜を飾り、バトル後の第2部トークのコントロールはうねうねとなし崩され、記録の映像と写真の撮影も複数の視覚に依った。裁くものが裁かれるのが世の習いだとして、その習いの意味の確定については慎重に避けられている。重ねることで曖昧を避けられるなら、避けられ、の主体が時差を伴って遡り再帰的に凝固されることをこそ嫌ったのだと言いたかった。揺れに酔いながらあなたは、後半オープンマイク/弛緩して電池の切れたマイクがバトンする道中、つかのま話題にのぼった「物語」それ自体の構造に想起されている。

いかにも物語は有限である、物語は事物や事象同士を因果律ー無秩序な事象の乱舞に秩序の枷と重力を与えたいという切実で意識化のなされない欲望ーが強烈に結びつけた任意のテンプレートである、懐かしいかの説教にあるように、いちど真理の岸へとたどり着いたならばその地にあなたを運んだ舟のことはすっかり忘れなければならない、忘れられなければならなかった、忘れられなければならなかったというのに。

忘れるためのアーカイブというものがありうるだろうか?

s 2018/11/22 東京

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