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まだまだあおい

今日は僕が国際協力に興味を持つようになったきっかけの、僕が所属していた学生団体のOBOG会だった。今年はコロナもあって、Zoomでの開催になった。

ぶっ通しで参加して5時間くらいだったろうか。あっという間だった気もするし、長かった気もする。それは、僕が引退するときに思った感情と同じだった。

2年生の後期、僕はみんなからの投票で代表になった。「どうして代表に選ばれたんですか」と、よく就活の面接で聞かれていた。それっぽい答えはいつも用意して口に喋らせていたけれど、どうして僕が選ばれたのか、本当のところはわからない。

正直最初は全然乗り気じゃなかった。大変なことは目に見えていたから。僕が代表になるとき、お世辞にもみんなやる気があるとは言えなかったと思う。なんとなくだるんとした雰囲気が漂っていて、いろいろと見直さなきゃいけないことがたくさんあった。

僕には、そんな状況を率いていく自信も、経験も、何もなかった。正直、毎週定例会のある月曜日が怖かった。何を話したらいいかな、どうやって進めたらいいかな、どうしたらみんな参加してくれるようになるか、みんな楽しんでくれているか、話し合いに参加できているかな。毎週毎週、月曜日の前は胃がキリキリした。

男友達とよく話しながらのお昼休みのご飯の時間は、ミーティングへと消えていった。メールをすぐ返さなくて、リマインドをし忘れて、顧問の先生にはしょっちゅう怒られた。バイトで稼いだお金は、イベントに参加するための東京への交通費に消えていった。ああすればよかったな、こうすればよかったなと今でも後悔することは山のようにある。

カンボジアでやった調査も正直気が気じゃなかった。うまく調査は進まないし、カウンターパートの人と仲違いもあったし、かろうじて話せる英語でした通訳は本当にあってるか不安で不安でしょうがない。

今振り返っても正直、苦しかった記憶しか出てこないなと思って笑ってしまう。

どうしてこんなに苦しい経験をしたのに、また国際協力がしたいと思ったのだろうと、これを書いていて思う。うまくいったことなんて数えるほどだし、僕たちが現地に及ぼした変化なんてものは、本当にあったのかなって思う。

僕の所属していた団体は、今年で18年目だ。今年大学に入ってくる子たちにとっては、団体と彼ら彼女らは同い年。

団体ができて最初の数年は、ひたすら理念やらビジョンやらについて話し合ったらしい。初めてカンボジアに飛び立ったのはできてから5〜6年がたった頃だ。10年近く経って、ようやっと現地のパートナーを見つけて活動を始めた。そのパートナー団体とは一度離れて、その次のパートナー団体と契約を結んで1年目のときに僕は大学に入学した。そのとき、団体は14年目だった。僕が4歳の時に、静岡の片田舎で、僕が14年後に苦楽を共にする団体は生まれた。

その後、僕たちのパートナー団体とはいろいろと問題があってまた離れることになり、今は後輩たちが頑張ってくれて、新しいパートナー団体を見つけた。

一年生として、二年生として、OBOG会にこれまで参加してきたのに、僕はいつの間にかOBOGになっていた。本当にあっという間だなぁ、と思う。

現役の子たちの話を聞いていると、今みんなが悩んでいることは当時僕の胃をキリキリさせたものと、とても似通っている。同じようなことで僕も悩んだと、少しでも今、同じように頭を抱えている彼らを楽にできるならと、自分の経験してきたことを懐かしく思って伝える。数年前、その問題の、直接の当事者だったのは僕だ。

僕の経験が彼らに迫る壁を乗り越えるための梯子になるかはわからないけれど、大きなことは、少しずつ成し遂げられていくものなのだと、十六年目まで団体の活動記録をまとめた表を見て切に思う。

最初は現地に行くことすらできなかった。ようやく、足を運べるようになった。現地のNGOと契約を結べるようになった。契約は結んだけど、事業自体はうまくいったと言えるものではなかった。だから、また別の方法を探り出した。

大切なのは諦めないことだと、ケニアでクラウドファンディングを始めて続けることに怯えていた自分に、十八年の歳月が伝えてくれているような気がした。

僕はこれまでも書いてきたけど、クラウドファンディングを始める時点から正直怖くて怖くてたまらなかった。一人一人からメッセージをいただいて、もらったものの重みをひしひしと感じた。東京で一度精神的に参ってから、もう一度向き合うことが怖くて、ケビンと週ベースでミーティングをするので精一杯だった。情けないと、何度も自分で思った。

今、こうして書けるくらいには自分の弱さと向き合えるくらいには強くなったと思う。そして、僕がOBOG会で見つけたのは、一滴一滴を大きな大きな渇いた大地に注いでいって、大海を作ることの大切さだ。

わたしたちのすることは、大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。でも、その一滴の水があつまって大海となるのです。

僕がまだ一年生だった頃、大学の大きな教室を団体で貸し切って、「僕たちは世界を変えることができない」という映画を見た。

その映画の中で、この言葉が使われていた。パンツ一丁になった向井理が、たくさんの人の前でその言葉を言っていたシーンがあったような気がする。

あの頃から四年近く経って、いろんな世界を見てきた。世界を変えられると思った頃もあったし、無理だと思ったこともある。動けば動くほど、世界なんて変えられっこないと何度も思った。

団体の代表をやっていた時、本当に少しずつ、工夫を重ねた。当時一番面白かった授業の席のスタイルがコの字型の席配置だったから、定例会でもやってみようと思って取り入れてみた。ちゃんと話すに値する話題があるか、考えてみんなで話し合う時間を作るようにしてみた。ある時、メンバーの一人からメッセージをもらった。「いつもあおいのために頑張ってくれてありがとう」「何か手伝えることがあったら言って欲しい」

震える手で、クラウドファンディングの開始ボタンを押した。毎日毎日、応援の言葉と寄附が僕のメールの通知を鳴らした。ケニアの片隅でなんとか打ち上げた、先行きも不確かなものに、86人もの方が力を添えてくれた。

動けば動くほど、世界どころか、僕の自分の周りすら変えられっこないと、何度も、何度も思った。だけど、僕が動いた後を見れば、確かに変わっていたものがあった。

今から、18年。もし僕が、ケニアでの活動を18年間続けたら何が変わるだろう。何度も続けることが怖いと思って、逃げたいとも思った。だけど、エクセルのシートをずっとスクロールしないと底まで辿り着かない団体の歴史を見て、続けることの恐怖は希望に変わった。

僕はまだまだあおい。未熟で未熟で、何かやろうとするたびマイナスなことばかり思い浮かんでしまって、どうしようもないところはたくさんあるけれど。いつか世界を変えるだなんて、あおくさいことを胸張って言えるわけでもなくて、僕たちは世界を変えることができないなんて映画のタイトルに安心感を覚えてしまうような小心者だけれど。

諦めずに続けていれば、きっと世界は変えられると、あおいを見てそう思う。

18年後の僕はこのnoteを見て何を思うだろうか。まだまだあおいなぁと思うだろうか。でも、18年後の僕も、まだまだあおくあって欲しい。

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