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脱存在の軟着陸:タコピーの原罪(下)感想

本記事は前回の記事の続き、『タコピーの原罪』(下)の感想記事です。

前回の記事では『タコピーの原罪』(上)を読んだ感想、そして、『魔法少女まどかマギカ』(以下まどマギ)と比較しながら救済の物語としてのタコピーの原罪の物語の可能性を考察した。

結論からいうと私はタコピーの原罪について、設定の組換えによる面白さはあったが無難な結論に着地したと思っている。
それは私がこの作品をまどマギと比較して観てしまっているからかもしれないし、もっと若い世代の人にはタコピーが私にとってのまどマギのように新しいものとして響いているのかもしれない。

タコピーの下巻の中盤ではこの物語の構造が明かされていく、進撃の巨人宜しくのタイトルの12話でははじめはいじめっ子に見えたまりなちゃんが実はタコピーが最初に出合った人物であり、タコピーの最初のループはまりなの人間関係を崩壊させるきっかけを作ったしずかを殺すために行ったものだったことが発覚する。つまり、タコピーの原罪とはまりなの破滅を防げなかったことであり、上巻で起こったしずかのループの出来事でしずかのためにまりなを殺してしまったタコピーは罪を上塗りしていたことが明らかになる。

これを読んで私はどうしてもまどマギ10話のほむら回を思い出さずにはいられない。あの回でほむらのループが明らかになることによって1話からの話の見え方が転回する。ループ(タイムリープ)モノにはお約束の展開かもしれないが、タコピーでも同様の価値観の転回が巻き起こる。

その後、タコピーは東くんとの別れ、しずかとの会話を得たあと自分の存在をエネルギーに変換することでカメラをもう一度使って時間を巻き戻す。
再びぶつかるしずかとまりなだったが、タコピーの絵から「おはなし」の大切さを思い出し、仲良しエンドで物語は幕を閉じた。

この最後のタコピーの自己犠牲はまどマギにおけるまどかの概念化を思い出させるものであった。タコピーの物語が着陸した結論とは、道具に頼らず、おはなし=話し合いによって良い関係性を作りだし、幸せになる、一人ぼっちにならず、一緒に大人になっていくということだった。
ドラえもん的な道具に頼らず、会話によって心の内をぶつけ合うことでよい関係を築き、成長していく、自分にとっての幸せを見つけていく、ある意味当たり前の結論にたどりついた。
他人には自分にとって良いところも悪いところもある。それを理解した上で話し合い、良い関係を築いていく、怒りや憎しみといった感情ではなく理性によって人と接していく、それが大人になるということだった。

救済の物語としてはどうだろう。
過酷な環境・親・運命から少女を救い出す救済の物語としてタコピーはどうだったのだろうか。タコピーは結局その存在が消える代わりに少女たちに話し合いの大切さを残していった。少女たちは確かに仲良くなったが家庭や親の問題は解決していないように見える。
タコピーはこの物語のきっかけであり、フィクション要素を担う存在であったはずだが、最後はその存在を消してしまっている。その意味でこの物語は物語の中で虚構から現実に着地をしてしまっているのだ。それは最後までフィクションで描き通して虚構の中でメッセージを伝えることではなく、話し合いという現実の方法を結論として描いている点でも明らかだろう。
私が気になっていたのは哲学的な救済の問題であり、実際の問題ではなっかった。その意味でタコピーは毒親問題の要素も含め、リアリティを持っているともいえる。つまり、タコピーは救済の物語ではなく、現実のコミュニケーションの問題を描いていたともいえるだろう。

しかし、私が観たかったのは虚構の中で哲学な救済の問題を解決できるかどうかというフィクションの可能性を問うものであった。
ここで今期放送されたアニメ『マギアレコード』(以下マギレコ)を比較としてあげたい。この作品はまどマギの公式外伝でまどマギとは異なる魔法少女達の物語である。(時間軸としてはほむらのループの中のひとつとして進行する。)アプリ版が2017年から稼働している本作品は、2021年末に放送予定だった4話分の話数が一度放送延期され、2022年春に放送された。
アプリ版のハッピーエンドと比較するとアニメ版マギレコははっきりとバットエンドである。魔法少女の魔女化という過酷な運命から逃れるために引き起こった数々の出来事は多くの魔法少女の犠牲(死)によって終結する。
この中で描かれていたあるシーンに私は注目したい。それはある魔法少女が他の魔法少女をドッペル化(≒魔女化)から救うためにその心の闇(穢れ)を引き受けることでソウルジェムが壊れてしまうシーンである。
他人の心の闇を引き受けるために自分の存在を壊してしまうこのシーンは救済の難しさを物語っている。他人を救うということはその人の心の闇にも触れかねない行為であり、それは自分の存在を壊してしまう可能性のあるものだ。願いを叶える代償としての魔法少女と魔女化の運命、そこからの救済。

タコピーとマギレコを比較してみるとどちらも存在を無くすことを代償として対象を救ってはいるが、それぞれ着地点が異なる。タコピーは存在から無へのエネルギー変換によって物語を進め、しずかたちを現実の関係へと向かわせていた。それに対してマギレコは、魔法少女の存在の犠牲によって魔法少女を救い出す、それは魔法少女というフィクションの枠からは脱出できていない虚構への着地である。

マギレコ含めまどマギシリーズはこの存在→無(概念)の転移によって物語を進めてきた。つまり、魔法少女(存在)→まどか(概念)→悪魔ほむら(超概念)というように脱存在をエネルギーとして物語を推進してきたのだ。タコピーも脱存在することによって物語を進めているが、それによってフィクションとしての物語は終結し、現実のコミュニケーションに問題が移る。それは、SNS(虚構)と現実が現に密接しすぎている現代に適切な物語形式なのかもしれない。魔法≒フィクションによる面白さも持ちつつ現実的な問題(毒親・コミュニケーション)をリアルに描き出す。そのためには最終的には虚構からの離脱≒脱魔法(タコピーの存在消滅)が必然だったのかもしれない。

だが、それでも私は虚構の持つ可能性・力というものを信じたい。それは私が、フィクションが私たちの内在に働きかけ、エネルギーを生み出すということを信じているからだ。

マギレコ
https://anime.magireco.com/

なぜ魔法少女たちは話し合えないのか 動画の50:00位から
(1) #033岡田斗司夫ゼミ「『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』を金払って観たから言いたいこと言うよ!」2013.11.4 - YouTube

批評座談会(後編は有料)
https://youtu.be/Hyh1qeNB3BE


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