フラれたとき!
信用とか人情みたいな言葉をよく食らう。音楽屋だからだろうか。なぜか学生時代よりも、社会に出てからの方がよく食らう。
僕にも信用できるひとは大勢いるし、仕事も友人関係も根幹は信用にある。だから信用やら人情を、ないがしろにしているわけではない。
ただ信用とか人情というのは、絶対的な力を持っていないとも思うのだ。
逆に言えば、理想はあんまり仲良くないひとも、十年来のひとにも、血縁関係にも、仕事上の付き合いのひとにも、フラットに接していたい。好き嫌いはあるけど、できる限りフェアなシチュエーションを基に、人間関係を構築したいのだ。
極論を述べると、「このひとはもういいや」となったら、離れたい。「十年来の親友だから」という理由で縛られて、現在の大切なひとをおろそかにしたくないからだ。
僕は関わる人々すべてに対して、緊張していたいのだろう。
「疲れる野郎だな」と思われるだろうけど、緊張した関係の方が建設的、進歩的な話ができるし、新しい発展も得やすいはずだ。
信用とか人情という言葉の温かさ、耳あたりの良さ、リラクゼーションっぽさに本質をボカされたくない。大事なものは「今」大事なものだ。
本来いちいち書くことでもないのかもしれない。
なぜなら信ずるひとや友人が、宝であることは間違いないからだ。だけど自分の成長が阻まれたり、面白さが無くなったら、そのひとと付き合う意味は無いはずだ。
学校や会社は、その付き合いが難しい。嫌なら離れればいいと思うのだが、そうもいかないことがほとんどだ。
だけど人間関係をつなぎとめる絶対条件は「一緒にいて心地いい」なはずだ。絶対条件が制度や情や血縁になると、確実に歪む。
「ひとは離れていく」ということと向き合っておけば、離れられる立場になっても慌てることはない。
そもそも僕は解散するときには、フラれた側の人間なのだ。「こいつとは離れよう」と断定されたボーカルであり、作家なのである。
この事実に対して、怒ったりスネたり、相手を悪く言ったりするのは絶対に間違っている。
油断していると、「いつか失くなる」という想像力が欠如してしまう。想像力が無いやつが、フラれてキレ散らかすのだ。
諦めではなく、仏教で言うところの「執着を捨てる」というところなのだろう。
諦めではなく、誰との関係にも全力を尽くし、礼を尽くすことで、一緒にいる時間をよりエキサイティングなものにしていきたいものである。
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