死に方について!

今年で三十二歳になった。ヤバイ。
二十一で死ぬつもりで人生設計をしていたので、もう十年以上も余生を送っている。

ロスタイムみたいなもの、と思っているので長生きしたいとも思っていない。しかし生に執着しないからこそ、そこそこ健康でいられているようにも思う。長生きしたくはないのだが、健康ではいたいものだ。

「生き方を考えること、ライフスタイルを選んでいくこと」とは、結局「死に方を考えること」でもある。
これは音楽を書くときと全く同じである。歌を書くというのは、「歌をどう終わらせるか」ということと等しいのだ。

生きている状態というのは例外無く「死ぬ途中」である。
どんなにサクセスしていようが、調子こいていようが、どん底にいようが、それがその人間の最終的結果ではない。

スポーツや格闘技がそうだが、途中どんなに劣勢でも優勢でも、終了時に勝っているか負けているかで評価が決まる。

もちろん評価なんてどうでもいい。我々の人生は自分のものだ。死んだときに決定する「評価」とやらも、評価される自分がもうこの世にいないのならば無意味だ。どうでもいい。

という「死に方」もある。

反対に「死んだときにどう評価されるか」という「死に方」もある。これもまたアリだ。

僕はどうだろうか、と考えると、やはり自然の摂理の中にいたい。
ホモ・サピエンスだって動物なのだから野垂れ死ぬのが通常だ。昔所属していた事務所のひとが言っていたが、インドなんかではそこらへんの公道にホモサピの死骸が転がっているそうだ。

死ぬときのシチュエーションはさして気にならない。家族に看取られたいとも思わないし、孫に泣かれながら逝きたいとも微塵も思わない。

「孤独死」という言葉が蔓延し、さも悲劇のように報道されがちだが、そもそも死ぬときなんて孤独なものではないだろうか。そして孤独の何がいけないのだろうか。男一匹野垂れ死ぬのに、ファミリー勢揃いなんて気色悪いと思ってしまう。麦わら海賊団を崇拝しているクラスの委員長とは友達になれない。

長生きしたいとは思わないのだが、強いて言うなら、できるだけ苦しみたくはない。延命治療はいらないが、苦痛が和らぐ治療なら受けたいかもしれない。

安楽死処置を受けるにはスイスなどに渡航の必要があるが、現状ではどうやら英語が自分で話せないといけないらしい。我が国でも是非とも合法化にしてほしい。

自分の判断で死ねるのは大いなる自由だと思う。これは高校生のときから変わっていない。もちろんひとそれぞれだ。それが自由だ。

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