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バンドの売れる、ウケる、有名になる、稼ぐ

バンド小僧、ギター小僧たちは「売れる」という言葉と無関係ではいられない。もう中学生から意識せざるを得ない。

これはスポーツや勉強に打ち込む、ほかの十代と比べると異常とも言える。

「自分の力を高めたい」というスポーツ少年に比べて、バンド小僧たちは「他者からの評価を高めたい」と思ってるわけである。じつに浅ましく、卑しく感じないだろうか。

それにしても何故だろう。どうしてここまでの精神的着眼点の差が生まれるのだろうか。僕は十代の頃から疑問だった。「何故俺はこんなに浅ましいのか」と、自らの卑しさに首を傾げていた。

しかし、どこかに理由があるはずなのだ。
何事も原因があるから結果があるのではないか。この僕らバンタマたちの卑しさにだって、原因があるはずだ。性根が腐っているわけではない、ともがいていた。馬鹿なりにもがいていたのだ。

「生まれつきならば仕方ないが、まわりのバンドマンのタマゴたち、略してバンタマたちも同じではないか。俺たちが悪いのか、そうなのか、いや、どうなのか」と迷宮に迷い込んだ。

そして「売れたい」という話はまったく止まらず、僕たちのシケた放課後は、さらにシケたものになった。

答えは出ない。出ないが、きっとその原因とは「環境」ではなかろうか。

言い訳するつもりはないが、スポーツ少年らと僕たちは環境が大きく異なっていた。具体的かつ、切実かつ、最大の違いは「お金がかかる」ことだ。

練習は音楽スタジオを借りて、本番はライブハウスを借りることになる。これらはすべて民間の施設ゆえに金銭が発生する。

野球のグラウンドや学校の運動場なんてものは、僕たちには無かったのだ。

音楽が続いていくうちにどんどん金銭の額面は上がっていった。機材にせよ、消耗品にせよ、だ。

若気の至りで「ライブやるか!」ぐらいで燃え尽きられるならば全然いい。まだ傷は浅くて済む。軽音楽部あたりで終了しておけば、大した出血ではないだろう。

しかし「自主でのCD制作」にまで向上心がこじれると、もはや学生の遊びでは考えられない高額な支出になってくる。レコーディングまで症状が進んだバンタマのほとんどは、元の世界には戻ってこれない。

もちろん野球や勉強だってコストと無縁ではない。しかし父兄の協力が得られやすく、理解に至るまでもたやすいのだ。

練習、試合、用具、教材、塾、進研ゼミにかかる費用を中高生たちは、自腹で払っていないケースがほとんどだ。

これが「バンドやるねん!」だと親は何も出してくれない。ライブハウスのノルマを親に払ってもらっているバンドなんて、未だかつて見たことがない。

そもそもほとんどの親御さんたちは、バンドなんて嫌いなのである。
「何事も頑張ることが大事!」などと言うが、そのじつ極めて差別的であり排他的なのだ。そんなものだ。
自分の子どもにはさっさと辞めてほしいし、厳しめの家庭なら、時に勘当の対象となる。娘の彼氏が「俺バンドやってるっす!」なんて言おうもんなら卒倒ものである。

それぐらいドラッグ、セックス、ロックンロールの印象は根強く、まだまだ「社会に通じないどうしようもない馬鹿がやるもの」というイメージは拭いきれていない。

「当方ミュージシャン。プロ志望」の社会的地位は、時に性犯罪者すらも下回る時がある。

しかしその分、バンド小僧たちは若い頃から独特の経済感覚、自立心、独立心を身につけられるとも言える。

同世代の若者に比べると、シビアで酷でミジメな日々を送らざるを得ないからだ。

僕も同じく「酷な小僧」だった。
「泣いても誰も助けてくれない」という人生観を十代で身につけてしまったが、果たして吉だったのか凶だったのか。

そんな僕が「売れる」を強く意識したのはいつだっただろう。

2011年からキツめのバンド活動をしていったが、最初の2,3年はそうでもなかった気がする。

むしろ「売れる売れない」というより「ウケるウケない」で、あの頃の僕は考えていた。

この「売れる」と「ウケる」と「有名になる」と「稼げる」は似ているようでかなり異なる。90年代や00年代よりも、その隔たりは強くなった。

「ウケるかウケないか」で考えて音楽を続けていたのだが、2013年にロッキング・オンのコンテストで優勝した。

ある特定の一社に「ウケた」わけだ。自分のウケ史上最高新記録だった。

その後、音楽事務所の中でバンドは制作するようになっていった。こうなってからは「売れる売れない」の話ばかりになった。「ウケていようがいまいが、実数が価値」というものだ。

レーベルでの「売れる」というのは、言葉通り「CDの販売枚数」や「チケットの販売枚数」だ。この数値を膨らませていくことが『会社』の最大の価値にあたる。

では「売れたら売れた分だけ稼げるのか?」と聞かれると、答えはNoである。「売ろうとしてくれた人間の人件費」を始めとした、諸々の経費がかかる。
事務のいるんだかいらないんだか分からないお姉ちゃんの時給も、会社の諸経費から出ている。

こうして払ったお金と入ったお金、支出と収入が逆転しないと、当然「稼げる」にはならない。逆説的に考えると、「稼げる」を目指していくならば、支出を抑えていくのも一つの手段である。

会社を離れた後、僕たちの活動を支えたのがクラウドファンディングだった。驚愕の内訳だった。なんと「入金の90%がバンド側に支払われる」というものだ。運営会社は10%の利益しか出ない。かわいそうな話である。

音楽ソフトの使用料収入であれば作詞作曲1.5%ずつだ。「曲書いてるボーカルのひとは儲かるんでしょ!」というあの知識は、もはや一般の方々にも浸透している。日本とスウェーデンは権利ビジネスが強いので、たしかにそういう側面はある。

アレを簡単に説明すると「その先生の著作物を刷ったら先生に払う」というものだ。つまり売れなくても、CDを刷られたら入ってくる。これは小説家や漫画家も同じである。

余談になるが、「音楽出版会社も同じぐらい取っていく」という話は案外知られていない。そもそも「音楽出版」という仕事があることの認知度が低い。

この「音楽出版会社」という会社がアレコレと曲を使い回して、作家にお金が入ったり、仕事が作られたりするのだ。

たとえば「テレビ朝日出版」に権利を預けると、Mステやテレ朝系の主題歌という恩恵が受けやすくなる。

そこでその曲が流れて、あちこちで使われたら「テレビ朝日出版」にも作家と同じだけのお金が入るからだ。実際の流れや利権はもう少し複雑だが、大体こうなっている。

僕に著作権が帰属する『片道4,100円』という曲の出版会社は「吉本興業出版」であり、吉本のバラエティのエンディングになっていた。営業のアプローチ自体は「セクキャバを奢る」というものだったらしい。「酷だ!」みたいな内容の歌を書いて、商材になっていると聞いたときは死にたくなった。

余談極まりなかった。

言うなれば、それほど音楽家たちの分け前は少ないのである。

アーティスト印税にいたっては1%である。

「自主レーベル」でも50%だ。
ディストリビューション側が50%取り、それらは小売店等にも供給される。タワーレコードの店員さんも霞を食っているわけではない。

ライブハウスのチャージバックも50%であるケースが多い。

そんな音楽業界のマネタイズの中で、クラウドファンディングの80%〜90%とパーセンテージは天文学的だった。

「有名」な方がもちろんいいし、ソフトも「売れている」方がいいし、それには何かしらが「ウケ」ないと「稼ぐ」ことには繋がらない。

だけどパラメータが全て足りている状態なんてなかなか無い。というより、足りないパラメータをアレコレとやりくりしながら、グループの音楽生命を維持していくのだ。

「今の自分の音楽はどこへ向かっているのだろうか?」と問いただす夜がある。

そもそもリハビリで始まった日々だ。「有名」になるつもりも「ウケる」つもりも「売れる」つもりも「稼ぐ」つもりもなかった。欲なんてゼロで走り出した。

それでも「配る」という方向に向いた。これはきっと「有名」や「ウケ」にカテゴライズされるのだろう。

どこまでいっても、ギター小僧は「他者からの評価を高めたい」と思ってるわけである。

浅ましいのか、卑しいのか分からないが、僕たちはきっと音楽を通して人々に「かまってほしい」だけなのだ。「聴いてほしい」というのは僕たちにとって、もはや業だ。

だけど「ここにこういう人間がいる」という手の繋ぎ方は、スポーツや勉強にはできないではないか。その先に繋がった誰かを、ほんのり救ったりする夜だってゼロじゃない。

あのとき「酷だった」僕たちならではの、断末魔のようなコミュニケーションがかろうじて役に立つならば、こんなに痛快なことはない。

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