そんなに甘くない!

夢や目標を語るのは楽しい。

いや、夢とかそんな大げさな話じゃなくてもいい。

行ってみたい外国の話でも、公開前の観たい映画でも、読みたい本でもいい。

願望を語るのはそれだけで楽しい。明るくなるし、良い気分になる。

しかし、世の中は甘くない。いつも明るく話せるとは限らない。

なぜなら世の中には「世の中そんなに甘くない!」 という言葉を投げかけてくる人物がいるからだ。

「そんなに甘くない」

コレが突如飛んできて、こめかみにブッ刺さって取れなくなる日がある。

こうなると抜けるまでしばらく元気が出ないし、動けなくなる。とても嫌な気分だ。悲しい気持ちが胸を押しつぶしていく。

僕は中学生の頃から「ミュージシャンになりたい」と言っていたせいで、
「世の中そんなに甘くない」と散々言われてきた。

進級、進学するたびに新たな角度の「甘くない」が飛んできた。

もう乱れ撃ちだった。進路相談のたび、大人や先生とずいぶんモメた。

「世の中は厳しく、つらいものだ」と教えてくれる親切心はありがたい話だ。そこで二言目が「だから一生懸命やるといい」という流れになれば文句はなかった。

心配して、なおかつ応援してくれているのだから、こんなありがたいことは無いではないか。

でも現実はそれこそ甘くなかった。

「甘くない」の次には絶対に「だからやめなさい」がくっついた。彼らは「お前のことを心配しているからだ」と言っていた。

果たして本当にそうなのだろうか。彼らは心から僕を心配してくれていたのだろうか。

100%違う。彼らは誰かの心配などしない。

ただ誰かがやりたいことを志して、楽しく生きようとするのだけは許せないのだ。

おそらく「世の中そんなに甘くない!」と言っていた彼らの毎日は
とてもつらく苦しいものだったのではないだろうか。

自分がつらい気持ちで生きているのだから、誰かをつらい世界に引きずり込まないと気がすまなかったのだ。

結局、僕は自分を曲げることは無かった。彼らの宣教活動もむなしく、進みたい道に進んだ。

そして今、僕は世の中に出ている。

彼らの言う通り「世の中そんなに甘くない」という言葉もウソではない。

でも世の中に出て思うのは、「世の中が甘いか甘くないかはあまり関係無い」ということだ。

世の中の持つ糖度は、僕らの成果に影響をもたらさない。

何かすれば何か返ってきた。


一生懸命作った歌を一生懸命歌って、
丁寧に研磨して整えて、
新しいことを学んで、
現状を変えることに怯えないで、
人と時間をかけて向き合って、
自分の正当性を疑って、自分の信念を信じて、伝えていったとき、
まわりの人たちは応援してくれたし、
成果はしっかり返ってきた。

ここに世の中の糖度はまったく関係無い。

自分が怠惰に過ごすか、誠実に取り組むか、後は試行回数の多さだけだ。

「試行回数×ヒットレシオ」の先に成果があるだけだ。

ただそれだけでしかない。 怠けた日は失敗したし、怠けずにサイコロを振りまくればいずれいい目が出る。それだけだ。

彼らは「それなりの回数をちゃんとやらないと、ちゃんとならない」ということを世の中の問題にすり替えていただけだった。

逆に言えば「何回もちゃんとやれば、いつかはちゃんとなる」のである。

「俺の経験上、世の中はそんなに甘くないからやめとけ」という文言は
「俺は大した数もこなしてないし、ちゃんとやってこなかったから、うまくいかなかった。だからお前もやめとけ」の訳だった。

あなたが何かを始めようとするときに、そんな言葉を言う人がいたら、
その人の経験の質と回数が「ちゃんとやったもの」なのか検証した方がいい。

僕はいまだに彼ら「世の中そんなに甘くない教」の宣教師の方々の心は分からない。

一説によると「変化に対する恐れや、僕への想いがマイナス方向に振れてしまっただけ」らしい。それら批判にも感謝すると良い、とのことらしい。

少し分かるような気もするのだけど、僕はまだその言葉を自分の言葉にして、書くほどの境地にはいない。

自分の言葉で書けることは「世の中が甘いか甘くないかは成果に関係ない。
そう思って音楽をやっている」ということだ。

それが誰かを勇気付けるものになったり、アイディアの火種になれば嬉しい。

もしかしたら宣教師たちの言う通り、本当に世の中は甘くなくて、
その苦さはいつか僕を脅かすのかもしれない。

それでも僕はどっかの誰かが何かをやりたいときや、それが心配なときに
「そんなに甘くない!」という言葉はかけたくない。

心配するなら、もう少し好きな言葉が沢山ある。そんなやり方で心配したい。

僕に力を貸してくれた僕のまわりの人たちのように。

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