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弱いから解散したのだ

「男である以上、弱くあってはいけない」という説があるが、別にそんなこともない。草食男だの、ロールキャベツ男だの、いろいろな呼び名のある現代は、それぞれの在り方で生きていくことができる。

強者でなくても、生きることができるようになった。これは民主主義や資本主義のたまものである。ロスチャイルド様々である。大航海時代とは異なり、「貧しき者、弱き者には死あるのみ」ではなくなったのだ。

かといってそりゃ、もちろん強い方がいい。

強さを伴わないオスはやがて競争に負けてしまうからだ。強さを伴わないバンドは解散するし、弱い企業は潰れるし、弱い夫が作った家庭は壊れていく。残念だけど、これもまた揺るぎない事実だ。

「自分一人が生きる」だけならばやっていけるけど、こと「勝負の世界」では強くないと死んでしまうのだ。

仕事を取らないと、バンドも企業も単純に生き残ることができない。悪女に支配されると、カマキリのオスを喚起させるが、中年たちは線路に飛び込む。我が国では一日あたり100人が自ら命を絶っているのだ。もちろんほとんどの場合、実際に死ぬわけではないが、それでも心が死んだまま生きることになる。

「勝負の世界」と書いたが、果たして勝負というエッセンスを含まない場所はあるのだろうか。すべてが勝ち負けで済む世界もなければ、勝ち負けから目を背け倒して続いていける世界もないと思う。

友情も家族も勝ち負けがある。相手を打ち倒すのではなく、その関係を保ち続けるためには、様々な努力が必要だ。

喧嘩すれば和睦していくための「何か」がいるし、ときに軍事力が戦争を遠ざけるようにもなる。

相手を潰すことだけが強さの証明ではない。自らの生命を維持することも強さである。QOOLANDはそんな強度足らず、儚くも敗れ散った。これは頭である自分を筆頭に、組織として「弱い」からである。

身をもって知ったが、「弱いと駄目」ではないが弱いと負けてしまうのだ。

「負け」に折り合いをつけられるほど強いならば、弱くてもいいが、自分の「弱さ」に耐えられないほどの強度しかないならば、強くないといけない。

禅問答のように巡り巡ってしまうが、そんなものである。全部自分に返ってくるのだ。自分がいいなら、強くても弱くてもいいではないか。どっかの誰かに言われてインスパイアされるものでもない。

解散してから一年経つが、僕の一年は「強さ」というものに向き合い続けた一年だった。

旧メンバー、ファン、あの頃の関係者。
今もQOOLANDに呪われるように取り憑かれている人間など、地球上に自分一人である。

今もたまに夢に見るのだ。あの存在も、解散という現実も、あれは「弱さ」が膨張して潰れた「自らの人生の弱体化した結晶」なのだ。

そのせいか、あれから「強さ」というものに取り組み続けてきた。耐えられるほど強くないからだ。

少しでも身体を強くして、頭を良くして、資産を築いて、言葉を増やしてきた。

今の自分ならば、たぶんあのときの自分を救えるのでは、とも思う。少なくとも簡単に葬られなかったのではなかろうか。
続けたかったとかそんな話ではない。続かなくて良かったとは思う。

ただ、「続けることができなかった」という、自分の裁量が全く及ばない脆弱性が未だに許せないのだ。

「かつての自分が成仏できるぐらい現状を高める」というのは、僕のいくつかある人生の座右の銘の一つだが、この一年ほど濃かった年はない。

今週で解散してから一年経った。
だからなんだ、と言うしかないが、こんなことを聞いてくれる相手も、理解してくれる相手も、もうどこにも存在しない。

人間をそれなりにやっていくと、避けては通れない宿命がある。

後ろを振り返ったときに「どうしようもないこと」で足跡がいっぱいになっていることだ。

人生を一日に例えると、僕は今どれぐらいなのだろうか。夕方は来ているのだろうか。受け手のいないキャッチボールが続いているのは、もう受けてくれる相手が帰ってしまったからだろうか。

このnoteに興味を持ってくれた大きい出版社の方がメールをくれた。嬉しい。




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