一年前の貴様へ!

一年前の自分に手紙を書こう!みたいな企画をネットの記事で見た。

そんなドリーミーなことはやらないが、年号の変革期だ。ここらで一発、一年前を思い出してみるのも悪くない。
過去を振り返ってばかりも良くないが、絵本を開くぐらいの気持ちでのぞき見ると、経験なる名の教訓と小さな笑いが詰まっていたりする。

それにしても一年前がターニングポイントだったひとは多いのではないだろうか。だって四月なんだもの。そら変わるっつうの。

一年前の僕は「次に何をするのか」 で頭がいっぱいだった。ずっとやっていたバンドが解散したからだ。

盛大な葬儀!大勢の参列者!イカツめの香典!

ミュージシャンとしてバッチリ死んだ。「燃え尽きた」と言っても過言ではないほど、しっかり火葬された。

これで終わればいいのだが、そうもいかない。

まったくもってマヌケな話だが、現実は漫画や映画と違って、幕が降りた後も登場人物の人生が続くのである。

霞を食っているわけではないので、何かしらやらないと生きていけないし、反面、「もう生きなくてもいいか」と、しびれた考えも多少頭をよぎるのだ。ロックバンド解散の前後はじつにピーキーな日々なのである。

そんな解散から一年経ったわけだが、一年前の自分に告げたいことは、『あのとき頭を占めていた苦しみは今現在、何一つ無い』という事実だ。
というより何について苦しんでいたかも覚えていない。アホである。しかしそんなものである。

年月の破壊力は凄まじく、一年程度で人生指折りの悲劇すら、日常の中に溶かしてしまう。つらいことの大半が霧散するのだ。

「解散というものは退職近い」とよく言われたが、果たしてどうだろうか。たしかに似ているところもあるし、違うところもある。

たしかに大小様々な環境の変化が訪れる。その中でも、最大の変化は「ほとんどの人間関係が整理整頓されること」だろう。

「配られたカードで勝負するしかねぇべ」と言い聞かせて、ハードな人生をヘタクソにやってきた。
何の『役』もできていないのに、「将来」や「現在」や「安定」をベットし続けた二十代だった。

そしてこの「配られたカード」という表現を、僕は才能や実力、性格にルックスなど自らのアビリティを指す比喩だと思っていた。能力こそが『役』を構成すると考えていたのだ。

しかし、ここまで生きてきた感触だが、「カード」とはどちらかと言えば、人間である。
自分の力よりもまわりの人間の具合で、『役』が決まり、人生の方向は決まっていってしまう。

この「カードの配り直し」が「解散」だった。ポーカーのカード交換でいうとこの、全とっかえだ。何年もかけて作り上げた『役」を棄てた。

解散したとて、再び関わるひともいるだろうし、もう二度と関わらないひともいる。だけど、ほとんどの人間が「二度と関わらない」のが実情である。一度『山』に戻したカードが、また手札としてやってくることは無い。みんなそれぞれ目の前の生活で精一杯だから仕方ない。

もちろん解散してもそうならないひともいるだろう。退職してもそうならないひともいるのと同様だ。

しかし僕は過去のパンドラの箱をパコパコ開けられないのだ。これは欠点とも言えるし、自らの精神衛生上のケアとしての「うつの予防」とも言える。

これまでも「むかし関わった人間」と再会して、いいことが少なかったのだ。そのひとは「自分物語」の中では現れなくなった「終わったキャラ」である。
こち亀でいうところの戸塚だし、ドラゴンボールでいうところの兎人参家だし、コナンでいうところの新出先生だ。

終了したキャラがたまに描かれるときもある。スピンオフとしてフューチャーされたりする作品も昨今増えてきた。

だけど、やはり本編のキャラとは関わらない方がいい。「巡り会い」というのは絶妙なバランスのもとにできているからだ。

フクモト先生に僕のむかしの話をすると「そのとき出会わなくてよかった」と散々なことを言われる。しかしその通りなのだ。

今日、あなたが手を繋いだり肩を組んでいるそのソウルメイトだって、出会った日が一年前後していたら、きっとすれ違っていたはずだ。

だからだろうか。

facebookはそのバランスを崩す装置に見えるのだ。LINEの「友達かも」なんて余計なお世話だ。友達だからなんだと言うのだ。

「友達だった」「メンバーだった」「恋人だった」

そんなひとの方が他人よりずっと遠いはずだ。昨日まで抱きしめ合ったのに、挨拶すらできなくなる。そんなことの繰り返しの果てに、大人になってしまった。

名字の変わった元カノの存在が、別れたメンバーの報せが、自分にひどく酒を飲ませてしまう夜がある。

そんな夜は、アル中の気配が忍び寄ってきてしまいそうで怖いのだ。

みんな頭の中、想像上のアル中はアルコール切れの果てに、のたうちながら「酒ー!酒をくれー!」と絶叫しているのではないだろうか。

実際はあんなものではない。
腹が減っているときに、それまで忘れていた酒の存在を思い出したりするのだ。

変に不安でイラついたり、誤って過去の箱を開けてしまったときに「嗚呼、イマ一杯飲んだら」という考えがポコポコ浮かんでしまう。

すぐに打ち消すのだが、その考えは日常のあちこちで顔をのぞかせる。

「たまらなく飲みたい!」というのではないのだ。漠然と「ここで一杯飲んだら」と考えてしまうだけで、「そういう回路ができあがっている」という感覚だ。

不安、苦痛が少しでも訪れると「飲む」という回路にジャックインされる。精神病理学で言えば、報酬系の回路が確立されてしまっている状態だ。

そうなるとやはり取り返しがつかない、とまでは言わないがいろいろ弊害が出る。解散前後はじつに弊害が多かった。

解散を関係者方面に知らせたとき、「平井くんはどうすんの!」とあちらこちらから聞かれた。

「もう数ヶ月後にはスピンオフになるひとがなんか言ってるわ」と冷めたことを思って、酒をあおっていた。まったく失礼な話である。

しかし取り合うのも面倒なので「まだ何も考えてません」というアホの子のような回答をしていた。説教まがいの戯言を浴びるのは、もうゴリゴリなのである。

それでも一年も経てば酔っ払わないと話せなかったことすら、シラフで話せるようになるのだ。

あのときボンヤリしていた夢がこの一年間でいくつか叶った。人間は本気を出せば自分次第で、無形のものをこの世に実在させられる。
食ってくため、生きるため、自分の中の闘争心のようなものが枯れないようにするため、叶えるため何だってやってきた。

思い返せば、たしかこうやって始まったし、いつだってこうしてきたし、これが一番居心地がよかった。

一年前の自分に何が告げられるだろうか。

一年前の僕にあなたにも言えることは「今の苦しみはたぶん消えてる」じゃないだろうか。耳を澄ませば2020年の4月の自分からも「それ消えてる!」と聞こえてくる。

後はなんだろう。
うーん。平和?かは分からないが、今現在、満ち足りて生きているぞ、一年前の俺よ。


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