幸福の法則!

大学生だった。小卒なんじゃないの?とか言われるが、じつは大卒だ。

大学での僕の専攻は哲学とか人文とかだった。
「経済学とかよりも経済を動かす人の心みたいなものを学びたい」と考えていた僕は「人間科学部」という、なんとも言えないエキセントリックな学部に進学した。

結果、毎日を酒と睡眠薬のラリリ遊びで過ごしていたせいで、あまり詳細は覚えていない。授業料を考えるとコスパの悪い時間の使い方だった。あの四年間は無駄ではなかったが、効率は悪かった。あの授業料、時間を投下すればもう少しハードに何かできたのではないだろうか。

でも高校の段階ではそんなことを考えられなかった。
何も考えずに進学し、何も考えずに燃費の悪い時間を過ごした。

それはまぎれもない事実なのだが、その中でも良かったことはゼロではない。あの頃に学んだ授業が伏線となって、今現在いろんなことができているところもある。

二回生のときに「一回きりの人生」という授業があった。ほとんどの記憶が薄れている日々の中で「覚えている一日」というのがある。多くは無い。ただ、あの日のことはやけに鮮明に覚えている。

ディスカッション形式で、隣りのダチと話し合うスタイルの授業だった。

「一度きりの人生だからこそ自分のために生きたい」と僕は思っていた。しかし友達は「一度きりの人生だからこそ大事な人のために生きたい」と言った。

なんていうか、アレは僕の人生で初めて触れた「同世代の大人な意見」だった。背伸びしてもカッコつけてもない。同い年の、むしろ馬鹿な友達の意見だ。

彼はパチンコと風俗が大好きな馬鹿だった。もちろん金もないし、仕事もないただのアホ大学生だ。

なんのパワーも無いが、彼はたしかに「誰かのために」と言った。とても印象的だった。そして自分が少しガキに思えた。

つい先月、その馬鹿と数年ぶりに再会した。そしてあのときの話をした。

あれから十年経った僕たちはそれぞれ言った通りの人生を歩んだ。

彼は家族のために頑張って、僕は二十代をQOOLANDに費やした。たくさん歌を出して、たくさん人前に出た。

お互い、あのときよりも困っていない。お金だったり仕事だったり力だったりキャリアだったりを培った。
「たぶんこの先、金とかで変に食いっぱぐれることは無さそう。わかんないけど」ぐらいまでのハッタリが吐けるぐらいには実力をつけた。

二十代をガッチリ生きたという自覚もあるし、遺したものはこれからの自分をより過酷で熱いステージに押し上げてくれるとも思う。

僕の2009ー2019は「無意味な二十代だった」という時間の使い方ではなかった。「お前はそれでいいんだぞ!」とタイムマシンに乗って、十年前の自分に言いに行きたい。しっかり胸を張れる。

これはその馬鹿な友達も同様だ。

でもお互い後悔もあるのだ。「あっちの人生の方が良かったかも」ではない。

それは「もっともっと、おもくそ自分の思った通りにすれば良かった」だ。メチャクチャにぶっちぎりに偏っても良かった。

行動経済学者のダニエル・カールマンというおっさんの実験に面白いものがある。

被験者たちに専用の携帯電話を渡して、数週間にわたって、不定期にメールを送ったり電話をかけるなどして、その瞬間瞬間の「幸福感」を訪ねる、というものだ。

何度も調査することにより、幸福感をそのときの「状態」ではなく、長く続いている「特徴」としてとらえることができた。

分かりにくい。

つまり、後から振り返ったときに「あのときは大変だったけど、よい経験だった」と思える方が、脳は幸福を感じる。という結果が科学的に出たのだ。

逆説的に言うと、妥協して守りに入ると、幸福感は薄れるということだ。

「楽だったけど、もっと何かできたのではないか」という苦しさに、十年後じわじわと追いかけられることになる、という話だ。

キツくてもやりたいように生きた方がいい、と呼吸が続くほどに思う。

「やりたいけど本当にやっていいのかな?」と思うことなんて大体やってしまった方がいい。

親や先生の言うとおりにしていたら、僕は今ごろとてつもなく後悔しているだろう。自分を見損ないすぎて、自殺していたに違いない。

清水の舞台から飛び降りるのは案外平気だ。セーフティネットだらけの世の中だ。空中は一瞬ヒヤっとするけど、下はクッションだらけである。

辞めたきゃ辞めればいい。行きたきゃ行けばいい。「そこで捨てないと本当に後から取り返しがつかない」なんてことばかりだ。捨てられない方がデンジャラスだ。やはり人間やるならリスクを取らないことが一番のリスクなのだろう。

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