新卒×下の下のフリーター

新卒、新入生が溢れ返っている。GW過ぎたとは言え、まだまだ新しく見える。

僕にとって春の風物詩は花や食べ物よりも、人間の種類になってしまった。なんでこんなことになってしまったのだろう。

それにしても「新しい人々」を見ていると、少し胸に寒気が走るような感覚になる。
何かに捕まりたいけど、捕まる場所が見当たらないような寂しさが、身体の奥からふつふつと吹き上がるのだ。

九年前、僕は新卒で就職したわけではなく、疑ったままの歌を頼りに上京した。

夜行バスでツアーをしたり、スーパーブラックな会社でバイトしたりと、散々な春を送るハメになった。
金も無く、バイト先のオカマが作った弁当を貰って腹を壊したりしていた。まだ危険だった歌舞伎町でボコられたりもしていた。「最低限度の文化的な生活」には到達できていなかった。

「好きなことして生きていく!」と言ったはいいが、それに伴う過酷さを計算できていなかった。「こんなにつらいならやめときゃよかった」と一万回ぐらい思った。「好きなこと」はいろいろなインフラの上に成り立っているのだ。もちろん退くわけにもいかないから、泣きながら進み続けた。

大阪、名古屋でやたらとライブをするバンドだった。

東京でホームの場所を作るよりは、あちこちに行った方がいいと思ったのだ。「ライブハウスにノルマ代を納めるより移動費の方が有意義」だとも考えていた。これは今でもそう思う。

しかし機材車も無かったので、移動は全部バスになる。九年前の夜行バスは規制がゆるくて、楽器なんかも全然運べた。

淡々と書いているが、大阪でライブが終わって、すぐにバスに乗り込まないといけないのは体力的にも精神的にもキツかった。あの頃の後遺症で、夜行バスを見るとやたらと動悸がする。

夜に向こうを出て九時間経つと、新宿に着くのだが、朝の六時ぐらいになることが多かった。

ヘトヘトになった心と身体で、ギターだのエフェクターボードだのを持って、切符売り場まで歩いていく。

下りの電車は空いていて、上りの電車はギュウギュウだった。
ガラガラの車内にズドンと座って、発車を待っていると、向こう側のホームに上り電車がやってくるのが、閉じかけた眼に映る。

ドアが開いて、ワッとサラリーマンたちが一気に吐き出される。外国のマラソン大会のスタート映像みたいだった。
でも目の前で起きていることは、本当に知らない国の出来事に見えた。それぐらい僕とあの大勢のひとたちには距離があった。

自宅は新宿から50分下る僻地だった。
相模原市と座間市に挟まった、どうしようもない場所だ。もういろんな意味で世界から取り残されていた。
それでも僕はあの閉鎖された世界で、結果を残さないといけなかった。「逃げる」という選択肢を選ぶことはできなかった。

同い年の新社会人たちは眩しかった。就活生に至っては眩しすぎて目が潰れそうだった。

コンプレックスからなのかは分からないが、あの頃の僕らのアー写は、社会人を彷彿とさせるものが多かった。

もちろん格好だけ真似たところで、エセはエセである。

新宿の街を颯爽と歩く彼らと、「下の下のフリーター」である僕がすれ違うと、プラスとマイナスがスパークして、消滅してしまうんじゃないかとさえ思っていた。

新社会人や新入生ぽい人々を見ると、あのときの暗黒生活が思い起こされる。胸も少し痛む。毎年少しずつ緩和しているが、これはきっと死ぬまで消えることはないだろう。

「新しいひと」と話すこともある。相談に乗ることもある。 ドキドキする。

話せる機会のたびに何が言えるのだろうか、と考えてしまう。「僕が到達できなかったひとたち」に言えることなんて、あまり多くない。狂ったことに、何かを言わせてもらうタイミングもある。

「気に入ったひととだけ付き合い、そして出会い続けるといい」ばかり言っている気がする。「ダメなところを指摘してもらわないと成長しない」は嘘だとも言っている。

意欲を削ぐようなひとと関わると、成長の芽を摘む。感情の生き物である僕たち人間にとって、「嫌な野郎」は害でしかない。 年上をあんまり敬いすぎないことだ。結局大したことないことが多い。

しかし、あのとき同い年だった新社会人たちはどうなったのだろう。「新卒」のときは「彼と彼と彼女は一年目!」と、おおよそ分かったものだが、もうすっかり分からなくなってしまった。あの頃見えていたものが、見えなくなってばかりである。 その時その場所でしか眼に映らない人種が確かにいるなぁ。

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