絶望に直面したら

絶望や苦しみには慣れなければいけない。

いや、実際そうなのだ。

大人になって生きていくときに、必要な力というものがいくつかある。

「諦めない心!」とか「怖くても挑戦する行動力!」とか「周りへの思いやり!」は大切だが、そんなことが生きるのは稀だ。
勇気や慈愛が炸裂して、結果を呼び込んだことなんていくつも無かった。

いつも美しくドラマチックに人生が上映されれば最高だが、そうもいかない。現実はもう少し暗くてエグイ。

救いも無い話なのだが、すべてをコントロールしているのは「慣れ」だったりする。

生きていると、もはや「慣れ」というものにしかすがれない日がある。くじけてしまったらその瞬間から死に向かってしまうからだ。それはすぐに無気力へと繋がってくる。

「慣れるしか打開策はありません!」という詰み状態からは生きている以上逃れられない。くじけているヒマがあったら、その痛覚に慣れるのだ。

もちろん絶望に耐えていると身体に異変は起きる。起きれなくなったり、訳もわからず悲しくなったり、腹が痛くなったり、記憶を失ったりするし唐揚げも拭くし、昼も夜もアルコールが止まらなくなる。

でも元来、僕たちは「慣れ」のスペシャリストだ。環境に適応する動物であるホモ・サピエンスは「慣れ」ながら繁栄を続けてきた。

そして「耐えられないこともある」のは間違いないが、キツイとき「耐えるしか選択肢がない」のも事実なのだ。

住宅ローンを払っているひとは、そのあいだずっとストレスに耐えないといけない。一括で返済するワザは無いし、宝クジを当てるしか無い。もちろんそんな確率を下げたところで勝負していると、人生ゲームはズルズル負けていく。

「もう嫌だ。払いたくない」と毎晩泣いていても打開策はない。解決策もない。

こうなると、ただただ八方塞がりの問題にどう対処するかだ。世の中にはどうしようもないことがあって、それに耐えないといけないのだ。

ピンチから脱出する方法があっても、可能性が低いなら安易に仕掛けるのは勇気とは言えない。ただのやけくそだ。

そう考えると「今の苦しみに耐えて慣れる」という能力は案外重宝するものだ。

あなたが絶望しているなら死を意識しているだろう。死ぬことを考えていないなら、意識すらしていないなら、それは絶望ではない。
そこから這い上がる方法は「死以外を選ぶこと」でしかない。

ただただ、耐えるのだ。なんならずっと絶望していればいい。死ななければ、というか死に比べれば他の絶望など大したことではない。

自殺さえしなければ、一年後には確率の高い解決法があるかもしれない。そもそもその苦しみに慣れきってしまい、鈍化し、楽になっているかもしれない。

これは成功論ではない。逃れられない痛みにどう対処するかである。最悪なのは死ぬことで、それ以外は最悪ではないのだ。

耐えていれば、いずれはその苦しみから逃れる可能性がある。早まって死んでもいけないし、早まって「絶対無理」に挑戦してはいけない。

僕もここまで早まったときこそ、色々と破滅を呼び込んだ。
でも、だからこそ僕は絶望している人間を助けるつもりはない。絶望中なら思いきり絶望していればいいのだ。何度も絶望してきたが、誰も助けてはくれなかった。

最初の「絶望から立ち上がる」はいつだって自分の力でしかない。

それにしても、戦ごとはいつもいつでも「攻め」ではうまくいかない。「待ち」や「見」に徹するのがベストな時期というのは確実にあるのだ。
今は耐えるしかなくとも、いつか追い風は吹く。死ななければいい。

絶望の最中だって楽しいことはある。そんなものだけで生きていける。それもまた人間の良いところだ。

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