やさい

ゆうメンタルクリニックへ!

ゆうメンタルクリニックに行ってきた。

「病院に行く」というだけで、心配するひとがいるが、「病院に行く」ということは自暴自棄になっていないという証だ。つまり自分を大事にしている何よりの証明と言える。

そして病院に行くと勇気が貰える。
これは僕だけかもしれないが、病院という位相の中にいると、安心するのだ。

病院なる場所には「とんでもない病人」がいる。自分のレベルがリトルリーグの小学生ほどならば、まるで大リーガーごとき病人がゴロゴロしているのだ。

点滴の器具を付けて、身体中にギプスをはめて、凄い勢いで頭をかきむしりながら、カクカクした足取りでトイレに行ったりする。いきなり奇声を発する猛者もいれば、頭部に金属の矯正器具を付けているのもいる。

そんな彼らを見ると、「自分なんてまだまだ軽いものだ、よし闘おう」と思うものだ。

そして厄災を厄災のままポジティブに受け入れることの素晴らしさを、病院で再確認したりもする。

健常でない自分をありのまま見つめ、その行く末を楽しみにしておくことは、生きる苦しさを軽くする。

やはり僕のまわりにも何人かいる「厄災を嘆かないひと」というのは、じつにユニークである。むしろ厄災をテコのように扱って生きている。

足りないものを数えることほど愚かなことは無い。アレが足りないコレが足りない、というのは甘えん坊なのだ。目の前にある有り難いものに気がつくことが感謝への始まりだ。

心がイカレていても身体が健常ならばいいではないか。アル中でも仲間がいるのだからいいではないか。右腕が無くても、両目が揃っているのだからいいではないか、というわけだ。イマあるものに手を合わせる行為はどういった場合においても、自らをポジティブにする。

「心療内科というのはガイキチの魔窟なんでしょう」と思っている方もいるだろう。そう聞かれることもある。
そうなのかは僕には分からないが、それはそれでいいのではないだろうか、と思う。というか気が狂っているからなんだというのだ。

病気や事故はどんなひとにも起きうる。
王にも乞食にも子供にもサラリーマンにもフリーターにも降り注ぐ。

そして病気を鏡として、ひとは自分と対峙するようになる。そのときのまなざしの真剣さには、王も乞食も変わりは無い。


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