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祭礼組織について思うこと

令和4年11月27日
インチキ会議のせいで市中に出鱈目な話が拡散されてしまった。
まぁこれはある程度予測できたことだが本質を見誤ってはいけない。

保存会設立はなぜなのか?

總社宮の祭礼行事が、
石岡市の無形民俗文化財に指定されたことにより保存会設立が必須となったのは確かだが、もう一つ重要な理由がある。
この理由は誰もが忘れていて、置き去りになっているのではないだろうか。

前回の祭礼は令和元年。
その当時の祭礼テーマは「21時で終了している祭礼を21時半へ戻す」
言い方はあくまでも「戻す」だ。

東日本大震災の時に祭礼の交通規制解除が21時半から21時になった。
誰がそうしたのかは知らないが、混乱している理由の一つだと私は勝手に思っている。
十数年間、終了時間を元に戻せないのは、振興協議会の不手際なのだろうとも勝手に思っている。

話し合っていく中で警察側から宿題が出されることになる。
中でも大きい宿題は二つ。
その宿題を回答すればなんとかなるかも...と当時は道筋が見えていた。

一つは安全管理マニュアルの作成。
震災や豪雨、雷など、有事の際の避難経路、避難場所などの作成
雑踏警備対策などなど
マニュアルを作成すれば解決する話で、作成済みと聞いていた。

もう一つが問題であり、これが今回紛糾している「保存会」へ繋がる話でもある。

「石岡の祭礼で最高責任者は誰なのか?実行体制を改めて責任者の所在を明確にしてほしい」
これが警察からの宿題だった。

誰が責任者なのか?祭礼のトップは誰なのか?
神社でもない。氏子会会長でもない。市長でもない。年番祭典委員長でもない。振興協議会会長でもなかった。
いったい誰が責任者、実行委員長的な立場だったのか?
実は誰もいなかったのが石岡の祭礼だった。

令和元年7月21日
振興協議会で1枚の紙が配布された。
またその会議終了後に巡行責任者及び青年会長全体会議という場で、同じ紙が配布されてもいる。

そこには新しく「祭礼本部」という組織を立ち上げ、「祭礼本部長には氏子会長に就いてもらい最高責任者になってもらう」という説明がなされた訳だ。

この祭礼本部を宿題の回答ということにし警察へ要望書を提出したが、うやむやにされてしまい、令和元年の祭礼は元の時間には戻らず21時までの祭礼になってしまった。(警察側の対応も悪いよね)

かくして祭礼は終了し「元に戻す運動」は引き続き翌年へ...と思っていたところに新型コロナウイルスの話になってしまった。
その後、祭礼が出来ないでいる間にこの「祭礼本部」という話はフェードアウトになってしまった。


さて、それとは別に石岡の祭礼を文化財にしようという運動が始まり、その話し合いも並行して動いていた。
文化財指定に向けて動いていたのは「常陸國總社宮例大祭文化財指定検討協議会」という組織で通称「例文協」という。

平成最後のころから数年掛かったが、関係者のご尽力でめでたく石岡市から無形民俗文化財の指定を受けたのが昨年10月20日。
文化財の指定を受けるにあたり、祭礼を守り存続させていく保護団体が必要と行政側からの説明があった。
以前から祭礼組織・実行体制を変えないといけないという話もあり進めていたところで、保護団体の話しだ。

そこで考えたのは、
例文協の名前を変えて改組し、保存会という保護団体へ移行する案。
それと、ただ単に改組するのではなく「保存会会長は祭礼の最高責任者になってもらい、祭礼を実行していくことにする」という意味も含めて再スタートした記憶がある。

さて、ここからが本題。

その新しい組織図をどうやって作るのか?
神社、氏子会、総代会、振興協議会とで話しをすり合わせをし、まず最初に提案することになったのは振興協議会。令和4年1月20日のことだ。

出てきたA4サイズ紙1枚の上部に書いてあるタイトルは「石岡のおまつり実行委員会組織図(案)」

内容はというと市長に実行委員会会長に就いてもらう案であり、行政も一緒になって実行していきましょうというメッセージとのことであった。
が、問題は神社の立ち位置。
總社宮はというと点線で端の方へ「特別会員」と書かれている。私が日頃活動している団体は名前の記載さえ無い。
会議では目の前に座っているのになぁ。寂しいもんだよ。「お前らなんて組織にいらないよ」と言われた様なもんだ。

この案はY案と私は呼んでいるが、百歩譲ってウチの組織は無くてもまぁ構わない。が、神社を組織のほぼ外?に置くような案は、要するに神社排除ありきの話し。

これに神社、氏子会、総代会は流石に反発する。
ここら辺から対立の構図が出来上がってきたわけだ。
次の会議で各団体からは、「市長が中心となる組織より、もう少し神社を中心とした組織の方が良いのではないか?」
との意見が多数出された。実は私が所属する団体でも会議を開き、意見を取りまとめた上で同様の趣旨で発言している。

このY案をベースに1年間近く話し合い何度か修正して考えられたものが今の「保存会」になった訳だ。
なので、もともとの組織づくりのスタートは振興協議会側から提案されたY案がベースになっていると私は認識している。

ここで大きな疑問、ポイントがある。

このY案にはそもそも「振興協議会」の名前が無い。自分たちで作成し提示した案に自分たちの名前が無いのだ。
自分たちで振興協議会を解体し市長を中心とした新しい組織を作り、市長の下で実行部隊として祭礼を取り仕切っていくという青写真があったようだ。

現在、「神社が振興協議会を解体し新しい団体を作る」という噂話が先行して市中に出回っているが事実は違う。
最初から自分たちで無くそうとしたのだ。そして市長をトップにし、祭礼を実行していく予定だった。
もしそのY案がそのまま通れば、市長が最高責任者になり、振興協議会は来年からなくなったであろうというのが事実である。
(市長がすんなる受け入れるような案では無かったが...)

その後、Y案をベースにし修正しながら保存会を作ったのだから、今の保存会組織図に振興協議会の記載がないのは当然だ。
それを今になって「振興協議会は今まで通り単独やっていく」と言ったところで、笑止千万。
子どもが遊びで話しているわけではなく、それなりの団体の長が集まり、きちんと会議を公式に開いてその中で発言しているのだ。

今、振興協議会は自分たちの組織を必死に守ろうとしている。
自分たちが実行している権利、補助金受入れの権利等々を必死になって獅子舞連合会と団結し守り抜くつもりだそうだ。
何をそんなに必死に守ろうとしているのかは分からないが...
何があるのか...
その権利欲しさに守るのか…
自分のポジションが無くなるのが怖いのか...


私的には21時で終わっている祭礼を、元の21時半に戻してくれる可能性がある団体の方で実行していった方が、ベターなのではないかと考える。

今の振興協議会では時間を変えることができるとは思えない。

神社を中心とした組織の中から最高責任者を出した保存会であれば、可能性は低いかもしれないがゼロではないと考えたいし思いたい。
保存会の設立に協力し、21時半へ戻すことを一緒に目指すことが今できることなのではないだろうか。

錦の御旗が立ちあがる令和4年12月18日。

最初に書いたインチキ会議の場で、当日は欠席すると発言した町会もあるようだ。
反旗を翻す町会、保存会加入を辞退する町会は来年の祭礼でどうなるのか?
保存会加入へ辞退した振興協議会と獅子舞保存会はどう出るか?

「祭礼」とは神社の「例大祭」であり神社の「おまつり」である。
よく考えれば...どうなってしまうかは普通は気づくはずなのだが。


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